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1月27日
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27日
「等身大となられた神」 野口 直樹
「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。」(詩篇139:27、28)。神は広大無辺です。
そのお方が私と等身大の神となられた。これがキリスト教のユニークな教えです。イエス・キリストは小さくなられた神、低くなられた神なのです。
私ははじめ、イエス・キリストがじゃまでした。「神を信じる心があればいいんじゃないか。神とは? 神とは曰く言い難き存在なのだ。」と、こんなふうに考えていましたので、イエス・キリストは神と自分の間に立ちはだかる目障りな存在に思えました。それはどんでもない考え違いであったことが聖書を読むうちにわかって来ました。
私たちには広大無辺な神は解らないのです。ただ、神の手の中に生かされているだけなのです。ところが聖書は、その神が降りて来られた、あなたのどん底に宿られた、あなたと同じ人生の重荷を負われた、と言うのです。
イエス・キリストは私と同じ罪人となられました。罪人の神となられたのです。彼は死んで葬られました。私たち人間と同じに。しかし、神は神です。人間の有限には納まらなかったのです。彼はよみがえられました。そして広大無辺の神に帰られたのです。
私たちが神を信じるという時には、漠然と宗教心を持つという姿ではなく、イエス・キリストを信じる、つまり、人となられた神、私の罪を負われた神、を信じるという姿を取るのです。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(1テモテ1:15)
「 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものである。」(1ヨハネ4:1-6)
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20日
「神の中に生かされている私」 野口 直樹
西遊記に孫悟空が釈迦如来とこんな問答をするところがあります。
悟空、「学びおぼえし変化は広きこと無辺」。如来、「かのお方は1,550劫(一劫は129,600年)の苦行を積まれたお方」。悟空、「キン斗雲に乗れば10萬8千里はひと飛びだ」。如来、「わたしのこの右の手のひらから飛び出せるなら、そちの勝ちとしよう。」
悟空は行くほどに五本の柱が見えて来た。ここらがどうやら行き止まりらしい。何かしるしを残しておこう。まん中の柱に「斉天大聖(孫悟空の称号)ここに一遊せり」と記し、第一の柱の根っこには、おまけとばかりに小便を引っかけて帰った。
悟空、「おれは天の端っこまで行き、しるしをつけて来た。なんならおれといっしょに見に行こう」。如来、「行くには及ばぬ」。こう言って手のひらを見せられた。なんと中指には、「斉天大聖ここに・・・」とあり、親指の付け根には猿の小便の臭いが残っていた。(西遊記 君島久子訳 福音館)。
聖書にはこう書かれています。
「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの
右のみ手はわたしをささえられます。」(詩篇139:1-18)
また、パウロは、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」と言っています(使徒行伝17:28)。
山も海も私たちも神の中に存在しているのです。神は山や海のように存在するお方ではありません。私たちの思想の中に閉じこめることのできるお方でもありません。神は広大無辺なのです。
しかし神はそのままではおられませんでした。広大無辺のお方が等身大の神となられたのです。それがイエス・キリストです。
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13日
「あなたの抱えているものをここに降ろしてごらん」
大村古賀島キリスト教会牧師 田中伊策
高校生の頃、試験の前日に英語の単語を覚えようと必死にわら半紙に書いた覚えがあります。しかし、今ではほとんど覚えていません。それどころか試験の当日には既に忘れていました。「あれだけやったのに、何で忘れてしまうんじゃあ〜!」と自分を呪いました。でも、何もかも覚えていても大変だ、と今更ながら思います。全部覚えていたら、頭が参ってしまうか、もしくは一つのことを思い出すために、自分の行動、見たこと聞いたことを全て遡って思い出さなくてはなりません。だから忘れて良いのです。私達は忘れるように神様からつくられているのです。必要ならまた、覚えようとしたら良いのです。
身体や心も同じです。全部覚えていようとしたら頭が参ってしまうように、身体や心も様々なものを抱えすぎると参ってしまいます。それなのに私達は人生の中で、あまりにも多くのものを抱えてしまっているように思います。背負いすぎて人に荷物がぶつかり、抱えすぎて握手も出来ない。さらにその抱えたものの重さに耐えかねて立ち止まり、座り込む、そんなことってあるように思います。
聖書の中にイエスのこんな言葉が書かれています、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28−30節)。
「大変だったね。辛かったね、疲れたね。あなたの抱えているものをここに降ろしてごらん」とイエスは言い、私たちが本当に抱えなければならないものを示してくれます。そして、そこからは一緒にその荷を背負って下さるのです。
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6日
「新年を受け、切り開き進もう」 野口 直樹
明けましておめでとうございます。この年が、皆さまに恵み溢れる一年となりますようにお祈りいたします。
教会はいよいよ、牧師招聘実現に向かって歩み出します。招聘委員会を中心に祈りに祈って、この教会に最もふさわしい牧師が与えられますように、希望を持って進みましょう。
「新」という字は立、木、斤(斧)から成っています。「斤で木をきりそろえる」(角川・漢和)という意味だそうです。森林を切り開くような努力を重ねてこそ、新しい世界を手に入れることができるのです。しかし、この頃は乱伐が問題になって来ています。人間の力を過信し、人間の都合ばかりを考えて開いた新しさは荒廃の荒れ野に行く付く道となってしまいます。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント5:17)とありますが、聖書は、真の新しさとは、「キリストにある」ことから始まると教えています。すなわち、天地の造り主、支配者である神の御心に従った生き方を基本とすることです。
イエス・キリストは神の子として、すべての罪の贖いとなって、十字架にかかり、そしてよみがえられました。私たちがキリストに連なるとき、すべての過去から解き放たれ、真に新しい道を歩き始めるのです。
切り広く前にまず、受けなければなりません。すべての天地の資源を感謝して受け、みこころを受け、力を受け、それから木を切りそろえて行く積極的な挑戦の一歩を踏み出そうではありませんか。
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