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10月28日
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28日 西南学院大学神学部 柏本 隆宏
「やめないこと」
初めに、若松バプテスト教会の兄弟姉妹のお祈りと尊い献金に支えられ、私たち神学生が牧師・伝道者として立つための学びに専心することが許されていますことを心よりお礼申し上げます。
この度、宣教奉仕のお話をいただいた時、若松教会の歴史について、神学校で共に学ぶ兄弟姉妹から教えてもらいました。そして、若松教会が1889年から宣教活動が始まり、日本のバプテスト教会の中で最も古い歴史を持つ教会の一つであることを知り、私は大変感銘を受けました。
伊丹キリスト教会に在籍していた頃、私は当時の牧師に「福音宣教の秘訣は何ですか」と尋ねたことがありました。それに対し、牧師は「やめないことだ」と返答されました。私はもっと他の答えを期待していたので、この答えを聞いた時には正直なところ少し拍子抜けしました。しかし、この若松の地で120年近くにわたって福音宣教の働きが続けてこられた若松教会の歴史について考える中で「やめないこと」というのは確かに大切だと思うようになりました。
ヤコブの手紙5章7節で、ヤコブは、主への奉仕を農夫の忍耐に喩えています。「兄弟たち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」。農夫は土を耕し、苗を植え、水を注ぎ、肥料をやり、雑草を取り除き、害虫を駆除し、剪定をします。しかし、どんなに懸命に働いても、それですぐに収穫を得られるのではなく、時が来なければなりません。全てのことには時があり、それを忍耐して待つことが、主のために生きる人には求められています。
私たちには、結果がなかなか見えないからやめる、負担になってきたからやめる、人から何か言われたからやめるということがよくあります。しかし、ヘブライ人への手紙10週36節が「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」と言っているように、やめてしまいたくなるような状況にあって、そこで「やめない」ならば、私たちは必ず収穫を得ることができます。
父なる主は、イエス・キリストにおいて、私たちを罪と空しい生き方から救い出してくださったばかりか、福音をの宣べ伝える者、それを証しする者としてくださいました。そして主は、私たちが1回や2回の失敗で諦めるのを望んではおられません。主は、私たちを何度でも赦し、立ち直らせてくださいます。主の愛を信じ、何度でもやり直し、主の約束を自分のものにしようではありませんか。
実りの時、収穫の時まで、私たち一人一人が主のために働き続ける者へと、聖霊によって変えられていくことを、祈らずにはいられません。
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21日
「『感』は当たるか」
私は2002年度から5年間、芦屋バプテスト教会の臨時牧師として、ご用に当たらせていただきました。芦屋教会を代表する役員が、2001年に福間教会を辞任引退していた私の所に、何度も足を運んで要請に来られました。
私はお話しを聞くうちに、ピンと来るものがありました。芦屋教会は説教者が埋まっただけではいけない。相当な期間、牧会者(教会員の霊的な配慮、伝道、教会運営など教会の全般的な働き。説教と共に牧師の主な仕事。)が必要だ、と感じたのです。それで、「みなさん、5年間、私と付き合ってください。私も5年間命をくださいと祈りましたから。」と提案して、受け入れられたのです。
私は古賀に住んでおり、教会の働きも極めて限られたものでした。教会は少人数となっており、高齢化も進み、弱っています。しかし神さまは、教会の中に深く潜みながらも脈々として燃えていた信仰を引き出してくださいました。祝福の一つを挙げれば、毎年バプテスマを受ける人が出て、計8名の兄弟姉妹が仲間に加わりました。5年後に定住の牧師を招聘するという願いも、全く雲をつかむような思いでしたが、神さまはちゃんと濱田修三先生という、私も敬愛して止まない牧師夫妻をお遣わしになって、実現してくださり、今教会の人たちは大きな喜びを味わっておられるのです。
世の中にはいわゆる感の鋭い人とか、予言の能力があると言われる人がいます。それを私は危なっかしいと感じます。それは人間は愚かな者で、そのような能力を誇り、自己目的のために使い、人を巻き込んで破滅させてしまう例があまりに多いからです。しかし、鈍い私にもピンと来る時があります。皆さんはどうですか、感が働く時があるのではないですか。その時どうしたら良いか。私は、それを大切にしよう、と呼びかけたいです。
神さまは私たちの知、情、意すべて、自然界のすべてに働いておられますが、更に理屈では解らない私たちの深みにおいても力を持っておられるのです。ですから、ピンと来た時には、それを自分の力に閉じこめてしまうのでなく、日々の祈りで吟味し、神さまに問いかけながら進むように心がけたいものです。イエス・キリストの十字架による罪の贖いの信仰はここでも大切です。しょせんは限られた力の、罪に歪められた「ピン、感」が神さまからの啓示、力となるために、それが大切なのです。
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14日
「自由の折り目」
私はこの頁を自己紹介のつもりで教会の人々に書いてきました。最近ホームページにも載るようになって、多くの方々の目にとまることとなり、喜びながらもちょっと戸惑っています。
新しい方々には、「なんじゃこれは。」と思われることもあるかも知れませんが、しばらくこの線で行きますので、引き続きお付き合いくださいますようお願いいたします。
教会は自由な感じがしますか、それとも堅苦しい感じがしますか?
聖書に、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」
(ガラテヤ5:13前半)とある通り、教会には自由な精神が横溢しています。みんな、気楽に来て欲しいものです。
仙台で開拓伝道を始めた時、前例を持たない教会ですから、礼拝後の報告で、「今度の日曜日は蔵王にスキーに行きます。土曜日からの一泊です。希望者は申し込んでください。」と青年会がアピールしたかと思うと、「今晩、第二牧師館で壮年会をします。」とアナウンスがあったりしました。青年たちがスキーで抜けたら礼拝は半分ぐらいになります。私は、「では牧師もついて行って現地で礼拝をしよう。」と冗談で言いました。ところが、協力してくれていた宣教師が、「では、私が留守を守って教会の礼拝を担当します。」と言ったのです。
それで、牧師も日曜日の朝をスキー場で迎え、雪上礼拝となりました。元気に讃美歌を歌い、安全を祈って、青年たちはゲレンデへ消えて行ったのでした。
第二牧師館、つまり牧師住宅を第一牧師館に見立てて、良く集まりをしている有力教会員の家をそう呼んでいたのですが、そこで壮年たちの食事会が開かれたのです。夜遅く電話があって、「○○さんが信仰の決心をしましたから、祈りに来て下さい。」と言ってきました。行ってみますと、当の本人を始め、みな相当酔っぱらっています。結局、私が運転して家々に送り返す役目になったのでした。
その教会はどうなったでしょう。本音で語り合う有力な壮年が核となり、行動的な青年がそれを支える活発な教会となったのです。
先ほどの聖書は続いて、「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13後半)と言っています。
真の自由は折り目正しい、熱のこもった秩序を生み出すと私は信じています。
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7日
「カリヨン・ジョイも尺八も」
私は今、「カリヨン・ジョイ」に入って、毎週練習に参加しています。
ごぞんじの通り、「カリヨン・ジョイ」は一人が一個から数個のチャイムを持って、みんなで協力して曲を演奏するのです。当然のことですが一個のチャイムでは曲になりません。しかし、その一個がなければまた、曲にならないのです。
私はお箏をする教会の青年に紹介されたのがきっかけで尺八を習い始めました。もう10年を越えましたが、相当期間休んだりしましたから、さっぱり上達しません。しかし、とても愛着を持っています。
しかし初めの率直な感想は、「これは欠陥楽器だ」でした。竹の筒に五つの穴が開けられ、歌口は斜めに切り落としただけです。ドレミファに親しんできた私にとって、穴が五つしかない尺八は、あと二つ音階が足りないということです。
しかし、先生は指を半分開けたり、顎を引いたりしてその足りない音階を出してみせて下さいました。歌口はホイッスルヘッドでも、リード付きでもありませんから、音を出すにも容易ではありません。しかし、先生はとてもやさしい音色を出してみせて下さいました。それで今では尺八は私にとって、「欠陥」ではなく、「血管楽器」となったのです。
私のからだの一部のような親しみを感じ、何時も持ち歩いています。尺八は尺八でなければ出せない、独特の音を持っているのですね。ピアノはピアノ、ハープはハープの持ち味を持っています。尺八は他の楽器と比較して価値が決まるものではないのですね。
本田路津子さんがよく歌われる讃美歌、「このままの姿で」に、「・・・バラはバラのように、・・・すずめはすずめのように」という詞があります。尺八がひとたび、名人の手に持たれますと、すばらしい持ち味を発揮します。オーケストラとも共演して立派な楽器となるのです。
イエス・キリストは十字架にかかり、よみがえられました。それは私たちを見つけ出し、真の命を吹き込むためでした。イエス・キリストを信じて受け入れた私は、私として生きることに十分な満足が得られ、私だけの持ち味を思う存分に発揮できる人生が開かれたことを知りました。
「彼らは、自分の持ち物を出し合って、奉仕した。」 (ルカ8:3)
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