11月4日
11月11日
11月18日
11月25日

25日
91匹どころではない                 野口 直樹

 私がごはんを炊いたり、味噌汁を作ったりしている、というので驚かれる人がいます。それほど、家事は全く家内まかせだったのです。けれども一人になった今は、できない、などと言ってはおられません。
 今日も味噌汁を作ろうとしていました。煮干しを一つかみして、ふと考えました。これで、何匹だろう。数えてみると、91匹でした。
 私は今、91のいのちのおかげを受けて、生かされようとしているのです。 
 以前、イエス・キリストの十字架の意味を考えていたとき、「それは私を生かすために注がれた神のいのちなのだ」という思いが示されました。
 私は朝の味噌汁とごはんとで、元気を与えられて、一日の働きをすることができます。それには91と言わず、多くのいのちが提供されているわけです。 
イエス・キリストの十字架はその頂点にあるものだと言えます。
 人は肉体的ないのちだけでなく、霊的ないのちも保たれなければなりません。イエス・キリストは私が真の意味で生きる者となるために、十字架にかかって、神のいのちを私にくださったのです。
 聖書は信仰の中心は十字架とよみがえりであると教えています。パウロは、「わたしは十字架につけられたキリスト以外のことは、何も知るまいと、決心した。」(1コリント2:2)と言っています。
 キリスト教は思想でも道徳でもありません。イエス・キリストの十字架とよみがえりによって与えられた、神のいのちにあずかることです。これが信仰の中心です。
 今日も煮干しよありがとう、ご飯よありがとう、イエスさまありがとう、と言いいながら、受けたいのちを燃やして働こうと思います。

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18日
「幼子や乳飲み子の口に、あなたは讃美を歌わせた」(マタイによる福音書21:16)
                 西南学院大学神学部教授・高須キリスト教会協力牧師 天野 有

 今朝の聖書個所は「放蕩息子」のたとえ(新共同訳)として知られています。
けれども、これはむしろ、「道を見失った(迷子になった)が、再び見出された息子」のたとえ、と呼ぶのがふさわしいでしょう。「このわたしの息子は……いなくなっていたのに見つかった」(24節。「わたしの」が原文にはあります。)しかも、この息子が「父」を見失っている間も、「父」がこの息子を見失うことは一瞬たりともありませんでした。
 スイスの神学者カール・バルト(1886-1968)の次のようなエピソードが、晩年の助手E.ブッシュによって伝えられています。
 神殿境内で子どもたちが主イエスを讃美している聖句(マタイ21:14-17)に基づいて、バルトは或る時こう述べた。「もしもイエス・キリストが子どもたちにとって現実に何の意味も持ってはいないのだとしたら、それこそ驚くべきことだ」。つまり、「幼子」の口からは(まったく子どもらしい表現ながらも)、聖書の真理が、場合によっては大人よりもはるかにはっきりと語り出されることがあるのだ、と。そして彼は甥が小さかった時の出来事を話した。それは、家中で或る大事なものを探していたがなかなか見つからず、皆が段々イライラしてきた時のことだった。甥はこう言ったのだ。「大丈夫だって。失(な)くなったものはどこかにちゃんとあるよ」。この言葉は、(とバルトは言う)神さまの知恵に満ちている。もちろん、失(な)くなってしまうということはある、だがそれは、私たち人間の目にそう見えるというだけのこと。失(な)くなったものは、まったく失(な)くなってしまったわけじゃあない。神さまにとって、それは失(な)くなってはいないのだよ。……(E.Busch, Glaubensheiterkeit: Karl Barth, Erfahrungen und Begegnungen〔『信仰の朗らかさ。カール・バルト、様々な経験と出会い』〕, Neukirchen-Vluyn 1987, 17頁より。)

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11日
【ご母堂の遺言】               野口直樹

 我が教会の先人の名を挙げるとして、吉田敬太郎牧師を第一としても異論はないと思います。先生は戦争批判の罪で現職の国会議員のまま逮捕され、死と隣り合わせの過酷な日々を送られました。その時獄中で読まれた聖書が、先生をキリスト教への入信に導いたのです。
 このことは良く知られていることですが、実はその出来事の15年以上も前に、先生はご母堂の中村ミネノさんから、福音を聞かれていたのでした。実に神さまの救いのご計画は広大にして緻密、不可思議にして驚嘆と言うほかありません。お許しを得て吉田叔子姉の筆写による、そのお手紙をご紹介します。

 いよいよ天国が近まりましたから 一筆書き残したいと思いますけれども目は見えず 頭はぼっーとして思うようと書く事が出来ません  私事 此の世に生まれてきたれども 過去をかえり見れば 実に涙の谷でありました  一日でも安らかな日をおくった事はありませんけれども キリストは私の逆境をとおして 凡て疲れたる者おもきを負へる者は我にきたれ 我汝を休ませんと 此のみ言葉を以て とおとき救いに入れて下さいましたがゆえに 如何なる困難にも打ち勝ち 感謝して讃美 祈りの内に天に望みをもって あー喜ばし いとよろこばし 日々主の愛の手に導かれ 天の我家さして進む身のよろこびかぎりなしと うたいつヽ 主が呼びに来て下さるまで待っております  どうぞあなたもキリストに救われて 私の行く天国に来て下さいませ 待っております  人間万物の霊長として生まれて 魂の安定と云う事を考えぬ人は馬鹿のかすです  だからキリストは人全世界をうるとも その命を失なわば何の益あらんやと おおせになりました  わずかばかりの今の世に居るうちに 神の御前に徳をつみなさるようにおすすめ致します
 どうぞ 大恩受けたる吉田父上に孝行してくださいませ  そして俊幸とは本当の兄弟ですから 仲良く暮らして下さいませ  たね代さんによろしく  三人の孫の為 天国で祈ります
 書きたき事 山々なれど 目が見えませんので これでさようなら  では天国でお目にかかりましょう
 先ずは書きのこし迄
  昭和6年6月
吉田敬太郎様
                               中村母

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 4日            
召天者記念式によせて
 浅川静子さんを偲んで

 浅川静子さんにお会いしましたのは、昭和43年の4月に私がこちらの教会に戻ってきました時でございました。
 浅川さんは私と同い年で生年月日も近うございました、また、二人とも若松生まれの若松育ちでございましたので、お話もあいまして、親しくさせていただきました。
 浅川さんはとても人情の熱い温かい涙もろいお人柄でございました。私の長男が亡くなりました時も、また三男が長い間入院しておりますことも、いつも心配してくださいまして「大変やね」「辛いよね」と言って涙ぐんで慰めてくださいました。私は心より浅川さんに有り難い思いで感謝しております。今も浅川さんの優しいお声を忘れることはありません。数々の思いで胸がいっぱいでございます。
 浅川さんは目の病気で田口先生が久留米医大に連れて行ってくださいました。何度も検査を受けられましたが視力は回復されませず、浅川さんは字を読むことができなくなられました。それでも浅川さんはすばらしい信仰をもっておられますから、聖書をお読みになることができなくても、聖書のみ言葉はきちんと覚えておられました。浅川さんによく聖書のお話を伺いました。浅川さんはまた、腸の手術をされましたけれども、浅川さんのお心にはいつも神さまがおられます。手術も無事終わられまして、養生されまして元気になられました。

 その後「あますみ園」に入所しておられました。その後アパートに住んでおられましたが、戸畑の「長寿園」に入所されました。長寿園では随分お辛いこともおありになったことと思いますが、日曜日には教会に出席されました。また長寿園での色々の行事の写真を私たちに見せてくださいました。長寿園におられます間に、ご病気や骨折なさいまして入院をなさいましたそうですが、私はお見舞いにも伺いませず、本当に心より申し訳なく思っております。
 その後、5年くらい前より八幡西病院に入院されました。ちょうど1年前の6月に浅川さんのお見舞いに、原口先生が女性会の方々と一緒に連れて行ってくださいました。浅川さんにお会いすることができましたことを本当に感謝致します。
 浅川さんとお話しすることはできませんでしたけれども、いつも神さまを信じて、すべてを神さまにゆだねておられます浅川さんのお顔はとても美しく輝いておられました。
 長い闘病生活を終えられまして、天国に旅立たれました浅川さんのご生涯を偲びつつお別れの言葉とさせていただきます。
                      2007年7月2日  幸田艶子

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