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18日
「幼子や乳飲み子の口に、あなたは讃美を歌わせた」(マタイによる福音書21:16) 西南学院大学神学部教授・高須キリスト教会協力牧師 天野 有
今朝の聖書個所は「放蕩息子」のたとえ(新共同訳)として知られています。
けれども、これはむしろ、「道を見失った(迷子になった)が、再び見出された息子」のたとえ、と呼ぶのがふさわしいでしょう。「このわたしの息子は……いなくなっていたのに見つかった」(24節。「わたしの」が原文にはあります。)しかも、この息子が「父」を見失っている間も、「父」がこの息子を見失うことは一瞬たりともありませんでした。
スイスの神学者カール・バルト(1886-1968)の次のようなエピソードが、晩年の助手E.ブッシュによって伝えられています。 神殿境内で子どもたちが主イエスを讃美している聖句(マタイ21:14-17)に基づいて、バルトは或る時こう述べた。「もしもイエス・キリストが子どもたちにとって現実に何の意味も持ってはいないのだとしたら、それこそ驚くべきことだ」。つまり、「幼子」の口からは(まったく子どもらしい表現ながらも)、聖書の真理が、場合によっては大人よりもはるかにはっきりと語り出されることがあるのだ、と。そして彼は甥が小さかった時の出来事を話した。それは、家中で或る大事なものを探していたがなかなか見つからず、皆が段々イライラしてきた時のことだった。甥はこう言ったのだ。「大丈夫だって。失(な)くなったものはどこかにちゃんとあるよ」。この言葉は、(とバルトは言う)神さまの知恵に満ちている。もちろん、失(な)くなってしまうということはある、だがそれは、私たち人間の目にそう見えるというだけのこと。失(な)くなったものは、まったく失(な)くなってしまったわけじゃあない。神さまにとって、それは失(な)くなってはいないのだよ。……(E.Busch, Glaubensheiterkeit: Karl Barth, Erfahrungen und Begegnungen〔『信仰の朗らかさ。カール・バルト、様々な経験と出会い』〕, Neukirchen-Vluyn 1987, 17頁より。)
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