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30日
「時と時間」
野口 直樹
「おめでとうございましょう」という表現は先ず、聞きません。来年6月に結婚が決まった娘さんに、結婚式は未だなのだし、結婚してみなければ、本当におめでとうが言えるかどうかわからないんだから、「おめでとうございましょう、だ」と言う理屈屋はいません。結婚の決まった娘さんは幸福なのです。6ヶ月の時の間は無いのです。その「時」を思って、今、しあわせなのです。
仲の良い夫婦は何十年も前の結婚式を、「つい昨日のように」思い起こすことができるでしょう。時は流れ、お互いにしわが増え腰は曲がって来ましたが、あの喜びの結婚の時と今の時との隔たりはないのです。
聖書では「とき」を表す言葉として、カイロスとクロノスという二つの言葉を用いています。
「あなたがたは地上にしばらくとどまっている間の時(クロノス)を、恐れかしこんで過ごしなさい」(1ペテロ1:17)。
「時(カイロス)は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。
「時間」は長さで計れる「とき」、横の「とき」、「時」は長さでは計れない「とき」、縦の「とき」です。「時間」は暦の、「時」は出来事の「とき」です。
今日は12月30日、暦の時は2007年の終わりを告げています。やがて年が改まって、2008年を迎えます。若い人にはこれから先、何年も続く長い時があるでしょう。私?うーん、あと何年かな。残された時間がそう長くないのは確かですね。
けれども出来事としての時は時間の長さ、短さに関係ありません。救い主イエス・キリストによる十字架の罪の贖い、よみがえりによる永遠の生命の約束、地上の命を終え、天上の命が始まるその日、それは縦の時、出来事の時なのです。
暦が改まるこの時期に、上からいただいたこの決定的な、出来事としての時を深く思い、心に留めて過ごしたいものです。
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23日
「結論としてのメリークリスマス」
野口直樹
「軽いな、薄っぺらだな。」 私は心の中で、ぶつぶつ言っていました。それは、「メリー クリスマス」という挨拶の言葉です。
「ハッピー ニューイヤー」もそんな感じです。日本語では、「謹賀新年」、「賀正」です。端正にして重厚じゃありませんか。
で、英語の達人ロッキーさんに電話してみました。「『メリー』はどうも軽い気がするんだが。『ハッピー』に比べても・・・」。「慣用句だから、そう違いはない。『心から救い主の誕生を祝いましょう、幸福な年をお迎え下さい』という気持ちを表したもの。」 だいたい、こんな返事でした。
これで、表現の方は納得したのですが、最初のクリスマスを思って、まだ重たい気持ちは拭えないでいました。メリーもハッピーもない、イエス・キリストは旅先で生まれ、宿屋はいっぱい、人々は知らん顔、とうとう家畜のえさ箱に寝かされたのです。
無事生まれたのも束の間、ヘロデ王の大迫害が起こり、500?も離れたエジプトへの逃避行を余儀なくされたのです。とばっちりを受けた住民はこれまた、大災難に直面しなければなりませんでした。
この暗さ、重たさはイエス・キリストのその後の生涯にも言えることです。讃美歌に、「すべてのものを与えしすえ、死のほか何も報いられで・・・」(新生讃美歌205)。天使は、「大きな喜びを告げる」と言ったのに。
こんな思いでいた時、岡村直子宣教師の一文を読みました(購読しておられる方は「バプテスト」12月号をご参照ください)。
「イエス・キリストは人間の罪による悲惨の中に来られました。その悲惨さを背負う為に来て下さいました。・・・神様、ありがとうございます。心から『クリスマス、救い主のご降誕おめでとう!』と讃美しながら・・・歩んでいきたいと思います。」
今日は救い主イエス・キリストのご誕生を祝う礼拝の日。「メリー クリスマス!クリスマスおめでとうございます!」と心からのご挨拶を申し上げます。
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16日
「『リ』のクリスマスを迎えよう」
野口 直樹
最近、「リ」のつくカタカナ英語がよく使われます。リセット、リフォーム、リサイクル、リフレッシュ、リニューアル、リクリエーション・・・。
これにならって、クリスマスを考えたとき、私の心に「リターン」と「リペンタンス」という言葉が浮かんできました。
最初のクリスマスに、羊飼たちがやって来て礼拝した後、「神をあがめ、またさんびしながら帰って行った(リターン)」のでした。
「(羊飼いたちは)急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ福音書2:16,20)
同じく、東方からやって来た学者たちがイエス・キリストを礼拝した後、「別な道を通って帰って行った(リターン)」のです。
「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(マタイ福音書2:11,12)
彼らは来たときとは違った生き方を始めたのです。これは、クリスマスを迎えた者は新しい歩みを始めることを暗示しています。
クリスマスはまず、神への立ち返り(リターン)です。そこで私たちは、罪の悔改め(リペンタンス)に導かれるのです。そのとき私たちはイエス・キリストを救い主として我が身に受け入れ、新しくされます。クリスマスが終わると、私たちはもとの、生活の場へと戻って行きますが、心は新しくされて今までとは違った生活、充実した歩みを始めるのです。
クリスマスを意義深く迎え、リセット、リフォーム、リサイクル、リフレッシュ、リニューアル、リクリエートされた新しい年の備えとしましょう。
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9日
「クリスマスの不思議」
野口直樹
クリスマスの記事には、マリヤは聖霊によって身ごもって、イエス・キリストを生んだと書かれています(マタイ福音書1:18,20)。
そんなことは、「あり得ない」ことですね。ところが、今、全世界で祝われているクリスマスは、この「あり得ない」物語でいっぱいなのです。
おさな子イエスのところへ真っ先に駆けつけたのは羊飼いたちでした。羊飼いたちはその知らせを誰から聞いたかというと、天使からだったです。天使が夜空を照らし、救い主の降誕を知らせると、天の大軍が一緒になって讃美の大合唱がおこったというのです(ルカ福音書2:9、13)。
次いで、東方から占星術の学者たちがやってきましたが、彼らは星を目当てにしてやって来たのです。するとその星が先立って進み、イエスのいる場所の上に止まったというのです(マタイ福音書2:2,9)。
みんな、「あり得ない」ことではありませんか。しかし、「あり得ない」ということを考えてみますと、それは人間世界内でのことを言っているわけで、しかも、ごく限られた知識と経験の物差しで言っているに過ぎないのです。
クリスマスの出来事はいくら考えても、調べても説明ができません。
けれどそんなことは「あり得ない」と断定することもできないのです。私たちの物差しでは間尺に合わないのです。それで私は、「この時、何か不思議なことが起こったのです。」とだけ言うことにしています。そのように私自身にも言い聞かせています。
人間の知識、経験からは説明できない不思議なことがことが起こった、それがクリスマスなのです。
聖書は奇跡のことを「不思議」という言葉と、「しるし」という言葉であらわします。クリスマスは人の尺度では測れない「不思議」すなわち「奇跡」であり、その奇跡はすなわち神さま、向こう側からの「しるし、合図」なのです。
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2日
「インマヌエルの主」
野口直樹
12月に入りました。クリスマスの月です。クリスマスはキリスト+マス(祭り)でキリストの降誕を祝う日です。
キリストはまた、「インマヌエル」とも呼ばれています。マタイ福音書1章23節に、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と書かれています。イム−共に、ヌ−われらと、エル−神、・・・「神われらと共にいます」という意味になります。 イエス・キリストが生まれたのは、神が私たちと共にいて下さることをはっきりと示されたことを意味します。
人間は一人では生きられない存在ですね。独居生活の私ですが、多くの人との関わりの中で生きていることを実感します。先日、香住ヶ丘教会で献堂式があったとき、久しぶりに息子と顔を合わせました。それも「お、元気か」という表情で、顔を合わしただけだったのです。歩いて5分ぐらいの所に住んでいるのにですよ。しかし、家族の絆は確かなものとして確信しています。
それに、私はこの教会に臨時牧師として招かれたことが恵みでしたね。すぐ、ずっと以前から知り合っていたような絆で結ばれました。信仰の兄弟姉妹の交わりですね。こんな風に、私は多くの人との関係の中で生かされているわけです。
イエス・キリストが「インマヌエル」である、「神われらと共にいます」であるということは、人は一人では生きていないということの根本を示されたものと言って良いでしょう。イエス・キリストは私の心の奥底まで知っておられます。
罪に汚れて、到底神の前に立つことのできない者であることを知って、私の罪のために十字架にかかられ、神の子として下さいました。そして、地上での歩みを続ける間、どのように生きたら良いかを教えられました。そしてやがて、「人の目から涙を全くぬぐいとり、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(ヨハネ黙示録21:4)世界に引き揚げてくださる、と約束されたのです。クリスマスはその始まりです。決して揺らぐことのない、「神われらと共にいます」の始まりです。
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。
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