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3月30日
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30日
「2007年度の終わりにあたって」 野口 直樹
3月最終の主日を迎えました。
私のスケジュールでは4月からは定住の牧師を迎え、私の任は終わることになっていました。
けれども現段階では招聘すべき牧師名が未だ挙がっていません。神さまのスケジュールは違っていました。
私が昨年6月、教会に送った臨時牧師受諾書にはこう書いています。
みことばの取り次ぎ・主日礼拝説教、祈祷会、その他の集会でのご用。
牧会 ・教会員、新来者、求道者への霊的配慮。
教会運営 ・各組織の円滑な活動への配慮と支援。
期間 ・2007年6月 日から2008年3月 日まで。
(但し、この期間に定住の牧師招聘が決まりましたら、その日までとします)
自分が書いていながら、いつの間にか忘れてしまっていました。
牧師招聘委員会では、「あせらず、じっくりと考え、祈ってこの教会に最適の人を見出しましょう」などどアドバイスして来ましたから、一班の責任は私にもあります。
招聘委員会は、22回を越える会合を重ねて、みことばに聞き、熱い祈りを捧げつつ、課題に取り組んで来ています。
それにも関わらず未だ結論が出ていないと言うことは、「主の機は未だ熟せず」という他はありません。
新しい年度を迎えるに当たって、私は次の三つのことを決意しております。
1、区切りは必要:皆さんの総意によって、新年度もなお私が必要とされるのであれば、喜んで引き受けます。
但し、私にとりましてはそれは任期延長というよりも、再任であり、主が与えられた再チャレンジの機会と捉えて励むつもりです。
2、終わりを知って今を生きる必要。イエス・キリストの十字架とよみがえりは私たちに終わりからものを見べきことを教えています。時を刻みながら生きて行きたいと思います。
3、絶えざる積み重ねの必要。 私が今健康で飛び回っておれるのは若いときの鍛錬のお陰だと感じています。足腰ばかりでなく精神的な面も同じです。運動はもちろんですが霊性の保持発展のために日々、みことばを貯え、祈りを積む者であり続けたいと思います。
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23日
「真の太陽が昇った」 野口 直樹
今日はイエス・キリストがよみがえられた日、復活祭です。英語ではイースターと言いますが、どこから来た言葉でしょう? イースト(東)と関係があるのでは、と考えた人は正解です。イーストはエオストレ(Eostre)という女神のお祭りから来ているらしいのです。エオストレは春の女神、または曙の女神と言われています。春は太陽が戻って来る季節、曙は太陽が昇ってくる時刻です。太陽が昇って来る方角、それがイーストです。
イエス・キリストは人の心を生き返らせ、人生を導く真の太陽として復活されたのです。それがイースターです。
イエス・キリストは地上の生涯を人々のために、愛の教えとその実践に費やされました。しかし、既成の秩序の中で権益をほしいままにしていた権力者たちはその安穏な生活を脅かされるのを恐れて、イエス・キリストを捕らえて十字架に架けて処刑しました。けれども神の子イエスは墓の中に朽ち果てる存在ではありませんでした。三日目によみがえられたのです。
イエス・キリストの十字架と復活はキリスト教の中核をなす教えです。十字架は私たちの罪の身代わりであり、よみがえりは私たちに贈られた永遠の命という贈り物です。
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(1コリント15:20)
私たちがこの罪のゆるしと永遠の命という贈り物を信じて、受け取るならば、光り輝く真の太陽、決して沈むこのとのない太陽を内の持つことができるのです。これがイースターです。今すでに私たちの上に、真の太陽が輝いているのです。
共にイースターの贈り物を受け、新しい年度も希望に満ちた日々を送りましょう。
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16日
「受難週を生きる」 野口 直樹
今日から受難週です。イエス・キリストの十字架とよみがえりの意味を思いつつ過ごしましょう。
日曜日 凱旋 (マタイ21:1-11)
群衆はしゅろの枝を打ち振って熱狂的にイエス様を迎えました。
月曜日 宮清め(マタイ21:12-17)
イエス様は神殿の商売人を追い出し、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」と言われました。
火曜日 教え(マタイ22:34-40)
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」
水曜日 終末(マタイ24:29-44)
イエスさまは終末に備えるように、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と言われました。
木曜日 最後の晩餐(マタイ26:26-30)
パンと杯は、罪が赦されるようにと、多くの人のために裂かれ、流されるイエスさまのからだと血を表します。
金曜日 受難 (マタイ27:32-44)
イエスは十字架にかかられた。神の子が罪人の呪いを一身に受けた贖いの死でした。
土曜日 葬り(マタイ27:57-66)
イエスの墓は大きな石で封印され、見張りの兵隊がおかれました。
日曜日 イースター(マタイ28:1-10)
よみがえりの主イエスは「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されました。
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9日
見えないものに目を注いで」 野口 直樹
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)
ある時、青年が牧師館を訪ねて来て、いきなり、「あなたはけしからん。おりもしない神をいるかのように言って人を迷わしている。」と言いました。
「それは、神さまは目に見えないが、それで、いないとは言えない。」
「目に見えないものは信用できない。存在するものは証明されるはずだ。」
と鋭い議論を吹っかけて来ました。とにかく中に入ってもらいました。青年は家内が出したお茶を飲んでいます。
「きみ、よくお茶が飲めるね。」
「?」
「そうじゃないか。初対面の家で出されたお茶に毒が入っているかも知れん。『この生意気な青年には死んでもらおう』とたくらむかも知れん。」
「いや、牧師がそんな悪いことをするはずがない。」
「そうだろう。私たちを信用してくれているんだ。だから安心してお茶が飲めるんだよ。信用は目に見えるものではないよ。」
彼は、「いやぁ」と頭をかきました。それからその青年は続けて教会に来るようになりました・・・。と続けばこの対話は大成功だったのですが、話しが理屈っぽかったので彼に頭はかかせましたが、心を打つことはなかったようで、残念ながらそれっきりとなってしまいました。
親友の間柄だって、契約書を取り交わして始めて成立するというものではないでしょう。
むしろ、そんな目に見える紙切れなど必要としないのが親友の間柄というものでしょう。厳しい商取引でも信用で結ばれていなければ領収証も紙切れに過ぎません。
目に見えるものの確かさは目に見えないものの裏付けによると言えます。イエス・キリストの十字架によって私たちは罪ゆるされた者された、という福音は目に見えないものによる確かさの最たるものです。
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」(2コリント5:7)
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2日
ついたての向こうに」 野口 直樹
男女共学は当たり前の今ですが、昔先生が、「君たちはいいな。男女、机を並べて勉強できて。アメリカでも昔は男女別々に座ったものだ。教室についたてがあって、片方が女子席、片方が男子席、先生は真ん中に立って両方見ることが出来たんだ。」と言われました。本当ですかね。
お医者さんと看護師さんと私が討論したとします。「死の壁の向こうにはもう一つの世界があるのです。」と私が言います。ベテランの先生と看護師さんは死後の世界を認めません。「私は何人もの死に立ち会った。死はすべての終わりです。死の壁の向こうに何かがあると思うのは気休めです。」と言ったとします。「では多数決で」となれば、2対1で私の意見は否決されることになります。
しかし、私と彼らには共通するものがあります。それは、三人とも未だ死んだことがない、ということです。憶測で言っているに過ぎない、壁の向こうのことは三人とも何も知らないのです。
ついたての両側を見て、知っているのは先生です。生と死の両側を語ることのできる者は死んでまた生きかえった者です。イエス・キリストは死んでよみがえられました。イエスさまだけが生と死のすべてを知っておられるのです。
「わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。」(黙示1:18)と聖書は言っています。また、「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:34)とも言っています。
私は死の壁の向こうを知りません。ただ、死んでよみがえられたイエス・キリストの言葉を信じるだけです。そして、こんな愚かな罪人である私のために、十字架の死によって贖い、よみがえりによって永遠の生命を与えて下さったイエス・キリストを信じて、希望の中にこの生を生き抜くだけです。
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