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12日
「贖いの信仰」(聖書ところどころ‐16) 野口直樹
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23,24)
「贖い」とか「贖罪」という言葉は旧新約聖書を合わせて、なんと310回も出てきます。聖書はまさに「贖いの信仰」の書なのです。「贖い」は「代金を支払って買い取ること」、「奴隷の身分からの解放」、「罪からの救い」などの意味があります。
旧約聖書では、「わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」(出エジプト 6:6)とありますように、神は、 「贖いの主」として示されています。
また、人々は礼拝儀式として、牛,羊,やぎ,鳩など、また、ぶどう酒,油,穀物などが捧げ、罪の贖いとしました。
漢字で神とか礼拝を表す言葉には、必ず「しめす偏」が使われます。「示」の語源は‐‐机の上に物が乗せられ、そこから血が滴り落ちているさまを表す‐‐のだそうです。机の上にいけにえを乗せて神に献じるという意味です。
このように、どの民族にも、「贖いのささげ物」という考えはあったようです。
新約聖書は、「イエス・キリストがその贖いのそなえものとなられた。」と宣言しています。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(ロマ3:25)
「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)
私たちには動物の血を注いで、罪の贖いの供え物とする習慣がないので、「イエス・キリストの十字架の死はあなたの罪の贖いのためであった。」という宣言は何か悲惨な感じが先に立って、しっくり来ないと思われる方もあると思います。私はこれを、「神の赦しの宣言」と受け取っています。
人は皆、自分の罪深さを知っています。そして何とかその罪を贖おうと思って礼拝におけるささげ物とか日常生活におけるよいわざとか、人間の業を積み上げようとします。しかし、それらは到底、十分なささげ物に達することはできません。
神はこの人間の窮状を見られて、神の子イエス・キリストを世に送り、これを十字架に架けて、贖いとされました。つまり、神ご自身が命を賭けて贖いを完成されたのです。私はこのことを、「十字架を仰げ、汝の罪は贖われた。」との神の宣言として受け入れます。
この宣言、向こう側から届いた神の救いの贈り物を信じて受け入れる時、そこから私たちの信仰生活が始まるのです。
「 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1:7)
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