10月5日
10月12日
10月19日

26日
若松キリスト教連合 合同野外礼拝』 
 聖書
  賜物はいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ聖霊です。
 勤めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
 一人一人に“霊“の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

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19日
岩阪憲和先生をお迎えして
                           牧師 野口直樹

 今日は「ミニ特伝」の日です。特伝とは特別伝道集会の略ですが、長い時には一ヶ月とか、一週間とか連続で集会を開くこともあります。
 当教会では昨年に続いて、何回かの礼拝に外部からの先生をお招きしてメッセージをお願いする、特別な企画を実施しております。
 今日のゲストスピーカーは岩阪憲和(イワサカ ノリカズ)先生です。
 先生は2006(平成18)年1月、西南女学院院長の要職に着かれ、今年4月からは西南女学院大学短期大学部附属シオン山幼稚園園長を兼任されて現在に至っておられます。
 教会は日本基督教団小倉東篠崎教会に所属しておられます。
 先生には大変ご多忙の中を、私たちの願いを聞き入れて下さいまして、今日の運びとなったことを心から感謝申しあげます。
 先生はご専門の音楽で、広く知られた方です。1969(昭和44)年に東京芸術大学音楽学部声楽科をご卒業になり、1976(昭和51)年にはドイツ、シュトットガルト国立高等音楽院学ばれ、芸術学修士号を取得されています。 音楽界で、華々しい脚光を浴びてご活躍をされる道もあったでしょうが、先生は、その賜物を神に捧げて、教会に仕える道を選ばれたのです。先生にとっては大きな決断であったと思いますが、1976(昭和51)年10月に常盤台バプテスト専任教会音楽主事に就任され8年間お勤めになりました。1984(昭和59)年4月から4年間は巡回音楽伝道者として、諸教会に奉仕されたのです。
 この間、一地方教会の牧師である私のような者にも親し交わってくださり、いろいろとお教えいただきました。心から感謝しております。
 先生は教育に、特に強い使命感を持っておられたようで、1988年(昭和63)年、請われてに西南女学院短期大学保育科教職に迎えられました(1988年助教授、1994年教授にご昇進)。以来、附属シオン山幼稚園園長、学科長、宗教主事、学生部長、学部、長院長などを歴任され、今日に至っておられるのです。
 院長は西南女学院全体を統括する要職です。学識、信仰、人格すべての点で、学院を代表するにふさわしい人物が抜擢され、学院の将来を託されるのです。その非常に重く、ご多忙な責務を日々担って下さっているのです。
 私たちは先生の益々のご健闘を祈らなければなりません。そして、今日はそのような素晴らしい先生からお話しをお聞きできる貴重な機会が与えられたことを感謝して、心を開いてしっかりとそのお話を受け止めたいものです。

 先生ありがとうございます。
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12日
贖いの信仰」(聖書ところどころ‐16)        野口直樹

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23,24)
 「贖い」とか「贖罪」という言葉は旧新約聖書を合わせて、なんと310回も出てきます。聖書はまさに「贖いの信仰」の書なのです。「贖い」は「代金を支払って買い取ること」、「奴隷の身分からの解放」、「罪からの救い」などの意味があります。
 旧約聖書では、「わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」(出エジプト 6:6)とありますように、神は、 「贖いの主」として示されています。
 また、人々は礼拝儀式として、牛,羊,やぎ,鳩など、また、ぶどう酒,油,穀物などが捧げ、罪の贖いとしました。
 漢字で神とか礼拝を表す言葉には、必ず「しめす偏」が使われます。「示」の語源は‐‐机の上に物が乗せられ、そこから血が滴り落ちているさまを表す‐‐のだそうです。机の上にいけにえを乗せて神に献じるという意味です。
 このように、どの民族にも、「贖いのささげ物」という考えはあったようです。
 新約聖書は、「イエス・キリストがその贖いのそなえものとなられた。」と宣言しています。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(ロマ3:25)
「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)
 私たちには動物の血を注いで、罪の贖いの供え物とする習慣がないので、「イエス・キリストの十字架の死はあなたの罪の贖いのためであった。」という宣言は何か悲惨な感じが先に立って、しっくり来ないと思われる方もあると思います。私はこれを、「神の赦しの宣言」と受け取っています。
 人は皆、自分の罪深さを知っています。そして何とかその罪を贖おうと思って礼拝におけるささげ物とか日常生活におけるよいわざとか、人間の業を積み上げようとします。しかし、それらは到底、十分なささげ物に達することはできません。
 神はこの人間の窮状を見られて、神の子イエス・キリストを世に送り、これを十字架に架けて、贖いとされました。つまり、神ご自身が命を賭けて贖いを完成されたのです。私はこのことを、「十字架を仰げ、汝の罪は贖われた。」との神の宣言として受け入れます。
 この宣言、向こう側から届いた神の救いの贈り物を信じて受け入れる時、そこから私たちの信仰生活が始まるのです。
 「 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1:7)

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5日
契約の神」(聖書ところどころ‐15)         野口直樹                                
 「食事の後、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われた。」(1コリント11:25)
 「契約」という言葉は旧約聖書、新約聖書を合わせると、300回以上出て来ます。神は「契約の神」なのです。
 ところで、「契約」には二通りあることを古川執事に教わりました。「片務契約」というものと、「双務契約」というものがあるのだそうです。「なるほど」と思いましたね。というのは新約聖書でもその区別がはっきりしているからです。
 それはディアセーケーとスンセーケーという言葉です。ディアは分離を意味する言葉で、「相手に関係なく」ということであり、スンは「共に」です
から、前者が片務(一方だけが義務を負う)契約であり、後者が双務(双方が義務を負う)契約にあたります。
 新約聖書で「(神の)契約」とあるのは全部、「ディアセーケー」です。
ディアセーケーを辞書で見ますと、「テスタメント」(遺言書)とあります。遺言書は一方的な契約です。スンセーケーは「条約等」とあります。条約は国と国との約束ですから、一方が守らなければ他方も破棄して良いわけです。
 旧約、新約聖書はオールドテスタメント、ニューテスタメントと言います。
聖書は神の遺言書なのです。
 オールドテスタメントは律法を守れば救われるという約束でした。
しかし、人間はその罪のゆえに誰も神の律法を完全に守ることはできません。
 神は滅び行く人間を深く憐れみ、「新しい契約」をたてられました。神の子イエス・キリストの贖いの死によって、信じる者はすべて救われるという約束です。
 遺言書は該当者がそれを受け入れるならば、有効な契約となります。
ニューテスタメントはすべての人に当てられた神の遺言書です。すべての人が遺言書の該当者です。信じて受け入れる人は誰でも神の救いの約束にあずかることができるのです。

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