4月6日
4月13日
4月20日
4月27日

27日
     「平安の中に生きる」 フィリピの信徒への手紙4:4〜7
          西南神学部大学院生 鬼塚 諌(おにつか いさむ)

 イエスさまは十字架につく前夜、弟子たちに最後の言葉を遺されました(ヨハネ福音書14〜16章)。締めくくりの言葉は「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」でした。イエスさまのお言葉通り、苦しみに会わずに生きていくことはできない、これが人生の真実の姿だと思います。
 であればイエスさまは私たちにどのように生きて行け、といわれるのでしょうか。フィリピの信徒への手紙を読むと、世にあって私たちは悩み、苦しみを避けることはできないけれど、そのことを思い煩うために召されてはいない。つまり、思い煩うことはクリスチャンの仕事ではないのだ、と言っています。クリスチャンの仕事は、苦しみに出会ったとき祈りと願いをささげ自分の求めを神さまに知っていただくことである、と言うのです。さらに、このことを行う人に、神さまはあらゆる人知を超える神の平和(平安)をあたえ、健全な心と思いの中で生きていけるようにしてくださる、と教えます。
「自分の求めを神に知っていただく」ことが、平安な人生を生きていく鍵なのです。では、どうすれば「神に知っていただく祈り」ができるのでしょうか、これが現実的な問題です。
さて、イエスさまは聞き届けられる祈りの消息をマルコ福音書11:23で教えています。大きな問題に出会って途方にくれている人がいます。しかし、問題の大きさのゆえにこの人は神さまに叫んで祈らざるを得ません。この営みの中で神さまがこの人に近づいてきてくださるのです.そして、信じ得なかった心を打ち変えて、「神さまはきっとできる」という信仰を与えてくださる日が来ます。その人の中に信仰が生まれると現実も解決に向かって動き出すのです。
「神に知っていただく祈り」もこれに似ています.祈りの中で「あなたの祈りを聴いているよ」と答えてくださる日が来るのです。そのとき私たちの心に「人知を超える神の平安」が湧き溢れてくるのです。

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20日
天上天下、唯我独一」            野口 直樹

 釧路教会の中山さん、お元気ですか。お会いしたのはもう20年も前のことになりますね。あなたと私が良く似ているというので、ご対面となったのでしたね。
 お会いする前の晩、特別集会のお話しをするため、前のベンチに座っていました。するといきなり私の肩を叩く人がいました。振り返ってその人を見ましたが見覚えがありません。しかし、慌て者の私は何処かでお会いした人に違いないと思い、「いやあ、しばらく」と言って握手をしたのです。けれども一向に思い出せません。お話しの間もちらちら気になっていました。
 終わって下りて来ますと、その人が、「人違いをしまして、とんだ失礼をいたしました。」と挨拶されました。どうりで思い出せないはずです。そばにいた他の教会員も口々に、「似ている、そっくりだ」などど言い出しました。私の肩を叩いた彼も、中山さんが司会でもするのだろうと見まちがって、「しっかりやれよ」と激励したつもりで肩を叩いたのでした。
 その晩欠席だったあなたと対面させようということになって、翌日私はあなたのレストランに案内されました。出先から帰って来られたあなたと私はしばし見つめ合って、「似ていない訳ではないが、そんなに騒ぐほどでも」というのが当人同士の印象だっと思います。しかし、初対面ながら不思議にも心が通じ合って、話しがはずんだのでした。
 帰ってから私は教会の人たちに、「私は看板を出したい。『世界一の教会、世界一の牧師』と」と言いました。教会員は、「またまた、牧師が大口叩いている。」とあきれ顔でしたが、私の心は、「世界で一番というのではないのです。世界でただ一つの教会、ただ一人の牧師です。」と言いたかったのです。 私はあなたと会って、ヒントをいただきました。私は神によってこの世に生を与えられた、たった一人の存在である、全世界を廻っても、全歴史をたどっても私は私以外にいないということ。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と聖書は言っています。お釈迦様の、「天上天下、唯我独尊」では、ありませんが、私は、「天上天下、唯我独一」と叫びたいです。
 お互いに、唯我独一、現品限りのこの人生を元気良く生きましょう。

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13日
 「ああ、深いかな神の知恵は」(4月6日説教より)
                           野口 直樹

 「 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エペソ1:4)
 人との出会いはほんとうに不思議です。3月30日に富野バプテスト教会で、付属みくに幼稚園の閉園感謝礼拝が行われました。私もこの教会と幼稚園で牧師、園長を10年間しましたので出席しました。
 プログラムの中で聖歌隊の合唱がありました。多くの聖歌隊員は涙を流しながら歌っていました。その中に杖を持ち、立ち居も不自由なご婦人がとても印象に残りました。それで、式が終わった時、お礼の言葉をかけようと近づきますと、向こうから、「先生、阪本浩子です。」と今は吉田となっておられるその方が名乗られました。私は、「ひろ子ちゃん」と言って、思わず頬をなぜました。不思議なことに、30年も前の記憶が一気によみがえって来たのです。ひろ子ちゃんは一人娘で、登園の時はいつも泣いていたこと。お母さんも泣きそうな顔で門の近くをうろうろしておられたことなどを話したらびっくりされました。聞けば、彼女のお子さんもみくに幼稚園に入れられたとのこと。そのお子さんのお産の時、浩子さんは脳に障害を負って、不自由なからだになられたとのこと。けれどもいつも明るく前向きに生きておられるご様子で、美しく、まぶしく感じました。
 担任の阪崎(旧姓・伊藤)俊子先生と連絡したい、と言われるので私は帰宅後、家中をひっくり返すようにして、先生からの古い年賀状を見つけ出しました。それを浩子さんに知らせ、私からも阪崎先生にはがきを出して見たところです。
 このような出会いの出来事は人間の計画に納まるものではありません。実に不思議という他はありません。使徒パウロも、「母の胎内にある時から聖別し、み恵みをもってお召しになったかた」(ガラテヤ1:15)により、「罪の赦しを受け、伝道者として立てられていること」(1テモテ1:15)を告白しています。
 私もパウロにならって、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ローマ11:33)と叫ばずにはおられません。

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6日
「さあ、始めよう」        野口 直樹

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:6) 

 新しい年度が始まりました。私としても仕切り直しで、初心から出直す覚悟でおります。
皆さんの中にも個人的に、家庭として、教会との関わりの中で等々、いろいろな計画が起こっていると思います。その実現に向けて前進しましょう。
 「あなたがたの中で」とありますように、神さまは私たちのただ中におられます。
そして働きかけてくださっているのです。自分の思いや、自分の頑張りが最初に来るのではありません。
 「善い業を始められた方」とありますように、意義ある目標、残すべき良い結果は神さまから始まっている、というのです。
「自分が、自分が」ではなくて、「自分を通して神さまのみわざが」展開することを願って、業に励むのです。
 「その業を成し遂げてくださる」。私たちが携わるその業は必ず完成するのです。信仰をもって始めた業に未完成は無いと聖書は約束しています。但しその本当の完成の日は、「キリスト・イエスの日」だというのです。
気の遠くなるような話しです。けれどもこれもまた、私たちの慰めです。「キリストの日」すなわち世の終わりの日の完成を信じて生きる者には平安があります。
私たちの一生はその途中経過に過ぎないのですから、決して完璧を望む必要はないのです。人の評価、歴史の審判も最終的な判断にはならないのです。
日々の結果に一喜一憂することなく、淡々とこつこつと与えられた業に励むのです。
 「わたしは確信しています」これはフィリピ教会のきょうだいたちのために日々祈っているパウロの結論です。
共に祈り合う仲間には強力な信頼関係が生まれます。私たちは一人で業を行っているのではないのです。
私のために祈り、支え、信頼してくれている友がいるのです。

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