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6月22日

29日
 「神の存在」(聖書ところどころ−4)
                            野口 直樹
 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。
  なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、
  ご自分を求める者に報いて下さることとを、
  必ず信じるはずだからである。」(ヘブル11:6)

 子どもは純真です。「神さまは」と言うと、素直に受け入れてくれます。そして、ありのままに祈りをささげます。これは彼らが幼稚だからでしょうか、それとも私たちこそ学ばなければならない人間の根本的な宝でしょうか。
 「神は無限、永遠、不変、知恵、力、聖、正義、善、真理の霊である(ウエストミンスター カテキズム)」と表現されるとすれば、全ての時代のすべての民族が神を信じていたと断言しても過言ではありません。
 人は生まれながらに神を信じる存在なのではないでしょうか。神を信じることは人の自然な姿、神を信じないことが人として不自然、ゆがんだことなのではないでしょうか。

 私たちは体の仕組みを理論的に知らなくても足を動かし、手を動かして活動しています。解剖学はその手足の運動の複雑な動きを説明してくれます。
信仰も同じ事で、私たちは単純に信じ、祈り、生活しています。聖書はその神について説明してくれます。時にはその信じ方が間違っていることを注意してくれます。運動力学が私たちの歩き方で間違った手足の使い方をしていればそれを矯正してくれるように、聖書は私たちの信仰や生活を矯正してくれます。
 今日の聖書は神は私たちの信仰を喜んで下さる方であると教えています。
どのような素朴な信仰でも、信仰をもって神に近づくとき、祈りをするとき、神は喜んでその信仰を祝福してくださると書いています。
 私たちは神の全てを知り尽くしてはいません。それは不可能です。けれども神がおられることを信じて求める者には神は必ず報いてくださるのです。
幼児の信仰にならい、この信じる道を歩みたいものです。

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22日
 「愛は神を知る」(聖書ところどころー3)
                            野口 直樹
 「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
                             (1ヨハネ4:8)
 6日には、四川大地震の発生に世界が震撼させられた。その翌週14日には岩手・宮城内陸地震が発生した。死者10名、行方不明者14名、負傷者は266名にのぼるという。四川大地震にいたっては死者は6万9130人と発表されている。これが愛なる神のわざであろうか。
 私は先週、久留米教会の特別集会で、「家内が病に倒れ、命のピンチに立たされた時、『神さま、これが私たちにくださった恵みの贈り物ですか』と祈った。」と語ったところ、集会後の懇談で、「もう少し詳しく」と説明を求められた。
 私は、「結論として、私は身に起こったことは全て恵みであったと受け取っています。それはその時にはわからない。部分的に見てもわからない。時を経て、総合的に見たときに、私は、『すべては神さまの恵みの贈り物』と言えるようになりました。」と答えました。
 大地震の被害者は大変な苦労を背負われている。「これは神さまからの恵みの贈り物です。」という人がいたら、それは大変な暴言である。私たちはただただ、被害に遭われた方々のために祈り、出来る限りの支援を続けなければならない。
そして、祈りと支援と自助の力とが、「悲しい出来事も、益となって働いた」という告白が聞けるまでに働くならば嬉しい限りである。そのことを願いながら支援を続けるようにしたい。
 神の存在を知るよすがは、結局のところ「愛」意外にはないと思う。上記の聖句の通り、愛の心が無ければ、神を慕う心がなければ神を知ることはできない。なぜなら神は愛の神だから。イエス・キリストは人の罪の身代わりとなって十字架にかかられた。
ここに神の愛がある。その愛を受けて、私たちは神を愛するのである。
 多くの悲しみ、多くの理不尽が満ちているこの世にあってなお、「これが愛の神のしわざか」と悲しく問い続けるままで終わってはならないと思う。
 「キリストはわたしたちが罪に死に、義に生きるために十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。
  その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」(1ペテロ2:24)

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15日
偉大な神の前で」(聖書ところどころ‐2)       野口 直樹

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
  だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
  いったいだれが主の心を知っていたであろうか。
  だれが主の相談相手であっただろうか。
  だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。
  すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
  神に向かっているのです。
  栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:33-36)

 天地の創造者であり、保持者である神の前に立つとき,私たちはただ神を仰いで,ほめたたえる思いに満たされます。
 信仰は神の前に立つ人間に謙虚さを教えてくれるものではないでしょうか。「私は解っている」と独りよがりになることがあります。
しかし、神さまの前に立たされた時、人間の理解力は何と小さく、偏っていることかと知らされるのです。
 今は科学の時代です。現代人は科学の恩恵を受けて生活を営んでいます。しかしその科学の業績も神秘無限の自然の前では子どもの知識にも満たないものです。神のみわざである大自然の前に立つとき、私たちは言葉の無力さを知らされ、言葉で表される真理は不十分不確実なものであることを自覚させられます。
私たちはいつも言葉がすくい取れない深い意味の世界があることを思い知らされるのです。偉大な神の前では私という人間はなんと小さな、しかし甚だしく愚かな罪深い者であることかを知らされます。
 「 主よ、わたしの目の覆いを払ってください。あなたのくすしき事を
  見させてください。」(詩篇119:18)

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8日
 「唯一の神」(聖書とことどころ‐1)          野口 直樹

 「わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。(1コリント8:6)

 聖書は、「神は唯一である」と教えています。多くの神々を祭ったり、多くの神々の中から一つを選んで帰依したりするのではなく、「父なる唯一の神のみ」を礼拝するのです。これは理に叶っている教えだと思います。私たちは、この宇宙は一つの原理によって動いていると信じています。そうでなければ、私たちは生きる基盤を失ってしまうことになります。
 この唯一の原理の源が神であると信じるのです。この原理は無機質の、何の意味もなく存在しているのではありません。人は原理が解明されただけでは満足できません。そこに意味を見出そうとするのが人間の自然です。生きる意味は宇宙の意志から生まれてくるからです。
 聖書は、その宇宙の原理の源を「父なる神」と呼んでいます。宇宙が一つの原理によって動いていることも、私たちがこの世に生を受けていることも、すべて、神にご意志が働いてのことであると言っているのです。
 キリスト教のもう一つの特長は天地の創造主であり、宇宙の運行者である神から、人間を繋ぐ唯一の道としてイエス・キリストが遣わされたということです。神の究極の、完全なかたちとしてのご意志が唯一イエス・キリストによって現わされたのです。私たちは神との繋がりの唯一、完全なチャンネルであるイエス・キリストによって神を知り、神に近づくことができるのです。
 これが聖書の神についての教えです。
 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(1テモテ2:5)

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1日
年老いても、病気の床でも」            野口 直樹

「老いは恵み、病は更なる恵み」。こう言うと、「健康なあなたに病の痛み、辛さが解るものか。」とお叱りを受けるに違いありません。そうです。老いも病もいたずらにそれを待ち、耐えることは主のみこころではありません。そのことを承知しつつも、老人性鬱病と診断された家内、そして認知症が徐々に老いの命を縮めて行った母との生活を思い起こして、上記のような感想を結論として与えられるのです。
 前期と末期では随分違ってはいましたが、おおよそ家内の一日は、黙って起きて来て、黙って食事をして、黙ってソファーの上で夕方まで過ごすというパターンでした。
私は時に、はがゆくなって、「なんとか言えよ。『ごくろうさん』とか。」とか、指を出して、「これ何本?」と言ってみたりするのです。家内はちょっと頭を下げたり、ちょっとニコッとして、「ばかにしないで」といった表情をするくらいです。ただ、「祈っててね。」というリクエストには割にはっきりと、「うん」と返事をするのがせめてものことでした。
 ところが、家内の持ち物を整理しているうちに、「あの6年間が彼女にとって最高の幸せな、充実した時だったのではないか。」という思いが高まりました。ダンボールに何箱もカセットテープがあって、それを彼女は繰り返し聞いていたのですが、榎本保郎先生、田中信生先生の説教や、長岡輝子さんの朗読、胡 美芳さんの讃美、その他あれもこれもです。元気で飛び回っている頃はとてもそんな余裕はありません。老いてこそ、病んでこその恵みの時だったのです。幸いなことに、榎本保郎先生、田中信生先生、胡 美芳さんなどはとても親しくさせていただいた方々です。ある時など、余り榎本先生、榎本先生というものだから、私は嫉妬して、「和子が違う、和子が。」と憎まれ口を言ったこともあります。榎本先生の奥さんの名は和子、私の家内も和子なのです。 最後の一年ぐらいはそのカセットも聞かなくなりましたが、この期間も含めて、彼女の内面性は深く深く養われていたと思います。元気な人が外から眺めては見えない世界なのです。
老いなければ解らない、病まなければ見えない世界を彼女は味わっていたのです。
 長岡さんの朗読がカセットから聞こえてきます:
 悲しみよ 悲しみよ。ほんとうにありがとう。
 おまえが来なかったら おまえが強くなかったら 私は今どうなったか。
 悲しみよ、悲しみよ。おまえが私を この世には無い大きな喜びが、
 変わらない平安がある イエスさまのもとに連れて来てくれたのだ。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
  なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる  からである。」(ヘブル12:5)

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