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27日
旧会堂の解体にあたって
現在旧会堂が建っている所には、戦時中、青年学校建築の計画により、既に堅固なレンガの土台や外壁が建設されていましたが、日本の敗戦によって工事は中止され、若松市の所有として放置されていました。それを戦前から当教会を守り続けてこられた山崎 衛氏が、親交の深かった当時の市長井上安五郎氏と交渉され、若松バプテスト教会が日本バプテスト連盟のミッションボード(宣教のための資金援助)によって購入することになりました。
しかし連盟は、一つの教会としては土地が広すぎるので分割購入を希望でしたが、若松市は一括購入を譲らず交渉は難航しました。その時、教会は「神様の御用に広すぎるということはない。」と決議して交渉はまとまり、現在でも日本一広い教会敷地(2、250坪)が与えられています。若松の石炭景気と川筋気質の恩恵に預かったとは言え、先達の信仰に対する胆の太さには驚きと感謝の他ありません。
当時、牧会・宣教の働きをしておられた吉田敬太郎牧師は、よく説教の中で「神様にお祈りをする時、小さな袋より、うんと大きな袋の口を開けて祈る方が、神様も沢山の恵みを与えて下さるに決まっている。祈るときは、いつも大きく。」と言われていたことを覚えています。
この広い土地はきっと教会員の大きな祈りに、神様が応えられたものに違いありません。そんな祈りの上に、教会堂は山崎 衛氏の経営する丸一建設によって建設され、1949年3月に喜びと感謝の新会堂献堂式(落成式)が行われました。
【教会100周年 記念誌より】
あれから約60年の時を刻み、幾多の喜びと恵み又艱難と試練を共にした旧会堂が、福音・宣教の器としての働きを完遂し、神様にお返しするときを迎えました。2008年7月20日の礼拝後、暑い真夏の日差しの中、私たちは旧会堂の前で、頭を垂れ神様の聖名を崇め、栄光を讃え併せて先達への感謝を込めて、祈りの会を野口直樹牧師の司式により執り行いました。
解体工事は、2008年7月22日より8月25日の35日間行われます。この間神様の見守りの中で、工事が安全に進められますようお祈り下さい。
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20日
「聖書は神の霊感の書」(聖書ところどころ‐7)
野口直樹
「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(2テモテ3:15,16)
バイブル(聖書)という言葉は当時、紙の原料であったパピルス(ペーパーの語源)という草の髄を指すビブロスから来ています。世界遺産になっているレバノンのビブロスはこのビブロスの積み出し港でした。
そこからビブロスは本という意味になったのです。だからバイブルは本という意味です。それが聖書を意味するようになったのは、聖書は本の中の本だからです。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」は直接には旧約聖書を指していますが、新約聖書もまさに、「神の霊感によって」書かれたものです。
「霊感」というと「霊感商法」などで騒がれて、何やら怪しげな感じがします。
聖書は読めば解る通り、すべてが何か恍惚状態のような異常な状態で書かれたものではありません。全体として極めて冷静に、理を尽くして書かれています。
「神の霊感によって」とは著者がひたすら神の導きを祈りながら、そして神はその著者を霊的な深みにまで導かれた結果、書かれたものであるという意味です。書かれた結果に私たちは神の導きを見るのです。それは私たちを「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く」ものとして書かれているということです。
ですから、聖書は全体的に理解されなければなりません。また、読む者も神の導きを仰ぎ、神の霊に知性を清め、高められ、救いを求めて読まなければ聖書の真の意図を理解することはできません。嬉しいことに聖書はそのような霊的な理解力を全ての人に与えていると告げています。
「1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)
「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなく
とがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられ
ます。」(ヤコブ1:5)
新約聖書は2000年近くも前に書かれた書でありながら、そのまま読んで理解できるのですから、驚くほかありません。そしてこれを読むすべての人に、あらゆる面で「有益」に働く本です。
まさに聖書は、「本の中の本」なのです。
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13日
「霊は霊によって」(聖書ところどころ‐6)
野口直樹
「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」
(1コリント2:11)
非常に霊感の鋭い婦人にこう言ったことがあります。「あなたは優れた霊感をお持ちです。だから気をつけなければいけないと思います。つまり、悪霊にも引かれやすいということです。」
反対に、何でも理屈で割り切れると考えているかのような人もいます。「人の心ひとつを取っても、理解し切ることはできません。親でも子でも、自分自身でさえも。」と言いたいです。
聖書は、「人の心の内にあるものは人の霊に触れなければ理解できない」と言っています。ましてや神のことは、「神の霊以外に」知ることはできないのです。
では、人の心に触れることのできる霊、神を知る霊とはどんなものでしょうか。それはイエス・キリストの十字架とよみがえりを通して与えられる霊だと聖書は言います。
「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものである」(1ヨハネ4:2)
信仰とは受け、です。神を知るのではなく、神に知られていることを知る、これが信仰です。
「 わたしたちには、神が〈霊〉によってそのことを明らかに示してくださいました。〈霊〉は一切のことを、神の深みさえも究めます。
わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(2:10、12)
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6日
「奇跡について」(聖書ところどころ−5)
野口直樹
「奇跡があるから信じる。」と言った科学者があります。聖書に書かれていることがすべて、理に叶ったものであるならば、信じる必要はなく、納得、承認すれば良いことになります。
しかも、「理に叶った」とは人間が現在までに知り得ただけの知識の物差しに叶った、ということですから、聖書の真理は人間の限られたレベルに閉じこめられたものになってしまいます。
ところが聖書の中には数々の奇跡の出来事が報告されています。その奇跡を表すのにいろいろな言葉が用いられています。
「イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の不思議な業と力あるわざととしるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。」(使徒2:22)。
奇跡は「不思議な業」です。イエスが荒れ狂う波に向かって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになったのでした。弟子たちは驚いて、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」と言った、という記事があります。また、奇跡は「しるし」です。イエスが結婚式でぶどう酒が無くなったとき、甕に水を汲ませ、それを持って行かせたところ、上等なぶどう酒に変わったいた、という記事があります。そして、「イエスは、この最初の『しるし』をガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。」と書いています(ヨハネ2:1-11)。
私たちは聖書の奇跡の記事を驚きを持って聞き、そこに数々の神のしるし、メッセージを読むのです。だらか、日常の出来事、自然を見てそこに神の業を見、驚ろきをもって神からのメッセージを読むならば、日常が、自然がすなわち奇跡なのです。
「もし信じられないならば、わざそのもの<奇跡>によって信じなさい」(ヨハネ14:11)。
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