9月4日
9月14日
9月21日
9月28日

28日
  『教会学校強調月間』 第4週に当たって  青年・成人科  西田宣昭

教会学校強調月間の最後の週を迎えるに当たって、私たちはもう一度、若松教会の教会学校の歴史を振り返り、先達の大きな働きを覚え、新たな歩みの始まりとしたいものです。
 若松教会の『宣教100周年記念誌・主イエスと共に』によれば、今から57年前の1951年に、仲西長男兄、柴田 悟(和)兄、森川繁巳兄(森川光子姉の父上)の3名で、教会学校が開校されたことが記され、ここに若松教会に教会学校の種が蒔かれました。
 1980年、田口昭典牧師が就任され、教会学校のあり方から勉強会が始められ、今日のような組織と活動が形成され、新しい教会学校の取り組みがスタートしました。翌年の1981年には、それまで教会学校の大きな課題となっていました、成人科の分級が開始されました。
 1982年、これまでの教会学校の変革に、さらに拍車をかけたのが、この年の2月に日本バプテスト連盟主催で開催された、ハリー・パイランド博士による、天城山荘での研修会に3名が出席、引き続き北九州教会で開催された、同博士による研修会に10数名が出席し、全員が大変多くの示唆を与えられ、これを教会の一致として受け止め、教会学校の課題を担い、人事面・財政面において惜しみない協力と祈りをもって支えられる中で、新たに乳嬰児科が新設され、ここに教会学校の目的の一つである、全年齢層の教会学校がスタートしました。(ジュニア科 8クラス、ヤング科 8クラス、シニア科 5クラス、教師24名)
 1983年、この年には、懸案の全体教師・書記会が定例的に開催することが実施され、また教会学校の研修会や西南女学院関係者とヤング科教師との懇談会が開催され、教会学校の真のあり方についての実践を図る年となりました。
 1984年は、教会学校の機能を充実するため、教会組織の変更を実施した年でした。
従来の3課(ジュニア科、ヤング科、シニア科)の内、ジュニア科を乳嬰児科・幼稚科・小学科に細分化し、5科・21クラス・教師29名として、新しい体制で再スタートしました。
 さらにこの年は、教会学校から礼拝式への理念を基に、『主日礼拝=教会学校+礼拝式』の図式を実現し、同時に『教会員は、全員が教師または生徒』を合言葉に、みんなで誘い合う教会学校づくりが、推進されました。
 1985年、『主日礼拝=教会学校+礼拝式』の実践を図るため、4月から統一教会学校(9:30〜10:30)の体制が確立され、教会学校から礼拝式への流れが定着しました。
 1986年、この年はアウト・リーチ(牧会・伝道・書記活動)が導入されました。田口牧師によって作成された「アウト・リーチの手引き」を基に、教会学校研修会が開催されました。教会では、その重要性が確認され実践に向けて、第一主日の午後を「アウト・リーチの日」と定め、訪問・通信活動が展開されました。
 1989年、教会学校のアピールと自らを励ますため、教会では「教会学校強調月間の歌」が出来上がりました。作詞は、当時の教会学校校長、古川 新兄です。曲は、「王将」で歌ってください。

『教会学校強調月間の歌』

1.吹けば飛ぶような 信仰だけど 俺の命は 主イエスに賭けた 今日も行こうぜ 教会学校 共に学ぼうよ 十字架の言
2.あの手この手と 思案のうちに 教会学校も 半年過ぎた 残る半年 祈りを合わせ 共に励もうよ アウト・リーチ

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21日
「信仰‐見えないものを見る目」(聖書ところどころ‐14)       野口直樹

   「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
    見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するか
    らです。」(2コリント4:18)

 私は「北九州シロアム会」という視力に障害のある人たちの集会に出させていただいております。彼らにこんな話しを聞いたことがあります。「私は白杖を頼りに歩いています。しかし、それがすべての頼りではありません。同時に、いつも向こうからのサインに気をつけているのです。向こうから聞こえて来る音とか、頬をなでる風とか、匂いまでも見落とさないように気をつけて歩いているのです」と。 冒頭の聖句の表現を借りればまさに、「見えないものに目を注いで」歩いているわけです。そういえば私たちも、たとえば車の運転を例に取ると、路地からいつ子どもが飛び出すかも知れない、交差点でいつ車が右折して来るかも知れないと注意して、「見えないものに目を注いで」運転していると言って良いでしょう。
 ところが信仰のことになると、「目に見えない神をどうして信じるのか」などと極めて浅薄な意見が出て来たりするわけです。私たちは、目に見えるもの、手で触れるもの、理屈に合うものだけが確かなものであるという錯覚に陥りがちです。確かにそれらは「確かさの一部」ではあるかも知れませんが全部ではないのです。
 白杖も、長ければ良いというものでもないそうです。長ければより遠くを探ることはできますが、逆に足元が覚束なくなるというのです。今、人類が持っている科学の知識を始めとした知恵を白杖に例えてみましょう。人類の知恵の白杖はものすごく長いものになっています。しかしこの知恵の白杖をどんなに長く延ばし、振り回してみたところで宇宙のすべてを探り尽くすことも、人生の意味を見つけることもできません。むしろこの白杖が長くなり過ぎてかえって足元が危しくなっているのが現代人の現状ではないでしょうか。
 私たちには信仰という別な杖が与えられています。この杖は振り回すものではなく、キャッチするアンテナとなる杖なのです。向こうからの声、神さまからの風を受け止め聞き分ける杖なのです。
 イエス様は私たちが愚かな者にならないように、次のように言っておられます。
 「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ9:41)
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

14日
      「敬老の日に思う」(聖書ところどころ−13)      野口直樹
 
 「老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧めなさい。」(テトス2:2)
 今日は敬老礼拝です。先輩の方々、おめでとうございます。
ますますお元気で信仰の模範者として教会の先頭に立って歩まれますように。
 私も敬老対象者の一人ですので、祝われる側に立って感想を述べさせていただきます。「国民の祝日」は15あります。「こどもの日」「成人の日」などですが、それにならってなぜ「老人の日」と呼ばないのだろういう疑問があります(事実、1966年に国の法律で祝日に定められるまでは、「老人の日」として一般で祝われていました。「母の日」がやがて「国民の祝日」に定められるかも知れませんが、その時は「敬母の日」に名称替えになったりして・・・)。「敬老の日」は敬われることを要求しているようで。祝われる側としては面はゆいです。
 聖書の老人観を考えてみましょう。旧約聖書では年寄りは絶対的に敬うべき存在であると教えています。
「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ19:32)
 ところが、新約聖書になると少しニュアンスが変わって来ます。
 「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。」(1テモテ5:1)
 教会では年寄りがもたもたしていると、「叱り」つけられるかも知れないのです。父親も絶対的権威者ではなく、「諭される」べき存在なのです。
 だからと言って初代教会に老人を軽んじる風潮があったかといえばそうではありません。
「若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになるからです。」(1ペテロ5:5)
 つまり教会では、若者は敬老を建前とするのではなく、実質の伴った心からの尊敬としなければならないと教え、老人には、「敬われる存在」である前に、「敬われるに価する存在」であろうと心がけなければならないと教えているのです。
 「老人たちには自らを制し、・・・年老いた女たちにも、同じように、・・・勧めなさい。そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、・・・教えることになり・・・。」(テトス2:2-5)

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4日
旧約聖書とキリスト教」(聖書ところどころ‐12)
                              野口直樹

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(2テモテ3:16)
                                     

旧約聖書について、注目したいことが二つあります。その1はユダヤ教、キリスト教、イスラム教という、世界の有数な宗教が共通して教典としていることです。だからもっと共通点を見つけて融和しなければいけないと思いますが、現実は一番反目している宗教になっていることは大いに反省し、もっと互いに学ばなければならないと思います。仏教はどうかというと、このような共通点はないですね。だからこそ耳を傾けなければならない点も多いのではないかと思います。
 その2は3宗教とも旧約聖書を基盤としつつ、独自の中心的な教典を持っているということです。ユダヤ教は旧約聖書(ユダヤ教は<旧約>聖書とは言いません。キリスト教の<新約>聖書に対する名称ですから)を唯一の教典としていると言われていますが、実際はタルムードとかミシュナーと呼ばれる文書を重視していると言われています。イスラム教はクルアーン(コーラン)が中心であることは良く知られています(しかし、イスラム教は旧約聖書だけでなく、新約聖書も<啓典>と呼んで重視しているそうです≪ウィキペディアより≫)。
 キリスト教は旧約聖書を基盤にして、新約聖書を中心的教典とした宗教です。では、旧約聖書からどういうことを引き継いでいるのでしょうか。
 その1はは神は天地の創造者、支配者である唯一のお方であるということです。
 その2は人は罪に堕ちた存在で、神の前に自らの力で立つことのできない者となっているということです。その3はしかし神は罪人である人間を救う、救いの実現を約束されているということです。
 新約聖書はまさに、この約束が神の子イエス・キリストの十字架とよみがえりによって実現した、と伝えている書なのです。
 旧約聖書は神の救いの約束の書です。新約聖書は神のその約束が実現したことを告げる書です。

「これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。」(エペソ3:11)

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