自転車が二つの車輪で走るように、教会は祈りと奉仕という二つの車輪によって前へ進みます。教会は祈りだけでも、奉仕だけでも十分ではありません。使徒言行録6章4節で、使徒たちは「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念する」と語りました。ここで最初に挙げられているのは「祈り」です。教会は心配によってではなく、祈りによって支えられます。祈りとは、自分一人で重荷を抱えるのではなく、その重荷を神様に委ね、神様と共に担わせて頂くことです。
一方、6章1節に記されているやもめへの‘分配’は、ギリシア語で「ディアコニア(奉仕)」という言葉が使われています。興味深いことに、使徒が御言葉を語る‘奉仕’も同じ「ディアコニア」が使われています。
神様の前では、礼拝で目立つ奉仕も、人目につかない奉仕も、すべて尊いものです。そのように教会は見える働きだけではなく、実は多くの見えない奉仕により支えられているのです。まるで氷山のようです。その一つひとつを主はご覧になり、尊く用いてくださいます。
さらに使徒たちにより「聖霊と知恵に満ちた人」を選び、その歩みを任せました。それは能力の高い人を選んだのではなく、祈りながら神様のみ心を求め、イエス様に従おうとする人々でした。教会を支えるのは、最終的には人間の力ではなく、神様に導かれる人々なのです。
私たちの教会も人数の減少や高齢化という課題を抱えています。しかしイエス様は今も教会の頭として生きて働いておられます。だから恐れる必要はありません。若い頃のように奉仕ができなくなった方も、祈りによって教会を支えることができます。その祈りは執事や委員会、牧師、あらゆる教会の働きを支える大きな力になります。
私たちは教会の目に見える所に希望を置くのではありません。イエス様が共におられることに希望を持つのです。祈りの車輪と奉仕の車輪、その両輪を共に回しながら、主に信頼して歩んでいきましょう。
