小学校の時、学校の大掃除の翌朝、朝日で昨日は見えなかったほこりが見えたことがあります。それは教室が汚れているのではなく、光が差し込んだから見えたのです。信仰生活も同じで、神様に近づくほど、以前は気づかなかった自分の傲慢さや嫉妬心、罪深さが見えるようになります。これはイエス様という光に近づいたからなのです。
本日の聖書箇所に登場するパウロも、若い頃は律法に忠実で、「ヘブライ人の中のヘブライ人」と誇れるほどの人でした。しかし、その‘正しさ’ゆえに教会を迫害しました。当時彼は自分が間違っているとは思わず、むしろ正しいと信じていました。私たちも同じで、‘私は正しい’‘相手のためを思って言っている’という思いが、知らない間に人を傷つけることがあります。
しかしパウロは復活したイエス様に出って変えられ、自分を「福音に仕える者」と呼ぶようになりました。年代順にパウロの自己認識をたどると、比較的初期のⅠコリント15章では「使徒の中で最も小さい者」、後のエフェソ3章では「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者」、そして晩年のⅠテモテ1章では「罪人の頭(口語訳)」へと、より低くなっていきます。これは信仰が、神様の光に照らされて成長した結果なのです。
私たちも、意識するとしないとにかかわらず、善意のつもりで人を傷つけてしまう‘加害者性’を持っています。しかし、それに気づかせる光は、私たちを責めるのではなく、それ以上に神の恵みへと導くために与えられます。恵みとは、受けるに値しない者に神様が一方的に注いでくださる慈しみです。パウロは自分の弱さを恥じるのではなく、むしろ神の力が働く器として受け止めました。
成熟した信仰者は、自分の成功よりも、自分を支えてくださった神の恵みを深く知るようになります。イエス様は私たちの影を照らしても、それを責めるのではなく、それを包む大きな愛と恵みを見せてくださるのです。
