パウロは「脱ぎ捨てる」と「着る」という衣服の着脱の言葉をここで用いています。当時の教会において、バプテスマを受ける人は水に入る前に古い衣を脱ぎ、水から上がった後に新しい白い衣を着せられました。パウロはこの具体的なイメージを用いて、私たちのキリストにある新しい信仰の歩みを語っているのです。
私たちも、繰り返す罪や日々の小さな妥協の中で、少しずつ心が鈍くなっていくことがあります。最初は良心が痛んでいたはずのことも、繰り返すうちに何も感じなくなっていく。ある行いをした後、以前は胸が締めつけられるようだったのに、今では何とも思わなくなっている。心が石のように硬くなる前に、私たちは自分の心の状態に敏感でありたいと思います。
23節の「新たにされて」は、一度きりではなく日々続けられる恵みの歩みを示しています。「新しい」は、カイノス(質的に新しい)であり、単なる新しさではなく、神にかたどられた全く新しい人格を意味します。古い人は情欲によって朽ち、新しい人は神ご自身によって造り上げられていくのです。
26節で「怒り」自体は禁じられていませんが、日をまたぐような憤りは戒められています。悪い言葉ではなく人の徳を高める言葉を語りなさい、とパウロは勧めます。本日のキーワードは32節の「赦し」です。これは「恵み」(カリス)と同じ語源であり、赦しとは恵みを相手に差し出す温かい行いです。それは神様から受けた赦しへの応答なのです。
一日の終わりに、今日信仰的な良心の痛みを感じましたか。それとも何も感じずに一日を過ごしたか。今日誰かに憤りましたか。宵越しの怒りは主に喜ばれません。その相手のために祈ってみましょう。誰かに恵みの言葉を語ったり、電話一本、メール一通でも小さな一歩を踏み出すことは大切です。新しい人を着ることは、そのように、み霊によって日々新たにされ続ける人生の歩みなのです。
