哀歌の著者はエレミヤだと思われます。エレミヤはイザヤとは違い、神様からの呼びかけを歓迎しませんでした。その主な理由は、預言者としての働きの大変さや責任を知り、さらには、その時代がユダの国にとって相当に厳しく、まさに外国勢力がいつ攻め込んでもおかしくない状態でしたから。
この哀歌の意味は、原語によりますと嘆き悲しむ、あるいは大声で叫ぶことです。エレミヤは人々の心が神から離れたことや、神殿とエルサレムの町の破壊を思い悲しんだのです。その神殿やエルサレムの破壊の前にエレミヤは民に、悪の道から離れて神に立ち返ることを告げ続けたのです。しかし民たちは神の声に聴き従わなかったため、40年後に神殿もエルサレムの町も破壊されました。そしてバビロンに捕囚され引かれて行ったのです。しかし神はそのような不従順な民たちを完全に見放さずに、ここでは将来の喜びを告げているのです。
聖書では嘆きの詩は、人の苦しみに敬意を表し、尊厳を与えています。混乱が嘆きの詩に含まれていますが、この哀歌の書き方はヘブル語のアルファベットの順に書かれ実に整っています。
この3章では、孤独な男性を題材として描いておりますが、この人は民全体を代表しています。そしてこの章は、旧約聖書の嘆きを寄せ集めたもので、ヨブ記やイザヤ書、詩篇の嘆きの詩を取り入れているのです。そしてこの苦しみは神の正義の裁きだというのですが、しかしなぜか、この3章だけが唯一哀歌の中で希望を語っているのです。神の裁きにあってもユダヤの民は主の憐みにより滅びなかったからです。
ここから学べることは、神はむやみに人に嘆きを与えているのではなく、それには意味があるのだと。そのことを通して、神は人を導こうとされているのです。そして祈りで、嘆きを神にぶつるのです。朝ごとにということは、主はその日に必要な我々の慈しみと憐みを準備してくれているのです。