旧約聖書時代に神は、幻をもっても人々に語りました。新約聖書時代になっても神は人々に語りました。ザカリヤ、エリサベトはバプテスマのヨハネの誕生について、またペトロ、ヤコブ、ヨハネには主イエスの変貌の時に語りました。またステパノは殉教の際に主イエスが立ち上がっておられる様子を見ました。またこのパウロはダマスコへ行く途中に復活の主を見ました。このように神は新約の時代にも人々に幻をもって語るのです。

パウロには優れた啓示が与えられていました。しかし同時にパウロに肉体的なとげを与えられたのです。それが、てんかんだった。あるいは目の病気だった、頭痛持ちだった、マラリや熱を持っていたと言われています。いずれにしても普通の体の状態ではなかったのです。わたしにも色々な苦難や体のあちらこちらに傷があり、また後遺症に悩まされることもあります。

神は人になぜ弱さを与えらるのでしょうか。我々はその弱さ故に悩み、もがき苦労します。でもここを読みますと神は私たちに高慢にならないようにと弱さを与えると読み取れます。そしてさらには、その弱さの中で神の恵みを読み取りなさいと言われるのです。でもなかなかそうは思えないですよね。私も度々牧師としての悩みの中で、眠れない日々を過します。また相談を受けた方々のことを伺うと、そのことを主に叫ぶように祈ることもあります。本当に主はなぜこのように苦しみを人に与えられるのかと思います。

その弱さの中に置かれた時、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。それは人の弱さの中で現れる主イエスの素晴らしさです。私も人生の悩みの中で、主イエスを信じることを導かれました。その深く悩める時に、身内の証し、そして聖書のことばより主イエスを救い主として信じることが導かれたのです。

わたしたちの苦労には意味があります。その弱さの中で神は語ってくださるのです。