私のピアノ恩師の愛と祈りによってクリスチャンになって34年が経ちました。今思えば、決して順調なクリスチャンとしての歩みではなく、何度も怠惰な自分を甘やかし、挫折を繰り返し、そのたびに神様に赦していただきながら今日まで来ました。証しを通してこれまでの信仰を振り返り、その中から気づきを与えられ、これからの私の信仰生活に一番必要な事柄を見つけられたことは本当に感謝なことでした。

イエス様が、神様の言葉として私たちに一番伝えたいことは何でしょうか。そしてそのイエス様から受けた言葉をパウロが今度は私たちに伝えてくれます。パウロが伝えたいこと、それはパウロが教育を受けたファリサイ派の「立派な信仰者にならなければ、神様に喜ばれない」という考えの対極にあるものです。パウロの言葉を「キリスト者として模範的であれ」と受け取るのではなく、神様はいつまでたっても欠けたところが多い、独りよがりで、自分勝手な私をそのまま受け止めて下さり、祝福の道を歩ませてくださっているのだから、その神様の祝福に気づくようにと伝えているのではないでしょうか。

パウロの時代の初代教会には、律法をどう受け継ぐかという点において、意見の違いがありました。真剣に神様に従おうとすればするほど、対立が深まり、一緒に歩んできたはずの友人たちを「敵」として憎むようになったのです。「敵」というと、国と国との戦争を連想しますが、ここでパウロが語っている「敵」とは、もっと日常的な、身近な人のことを言っているのです。仕事の上で、家庭の上で、共に活動していく上で、私たちを困らせる人、苛立たせる人、そういう人と意見が分かれたとき、私たちはどのように解決するでしょうか。徹底的に議論して、相手を攻め立て、どちらが正しいか、白黒をつけるのではなく、対立している相手のために祝福を祈りなさいとパウロは語ります。互いに相手を認め合い、祝福を祈ること、この執り成しの祈りによって、和解へと導かれていくのです。こうして怒りと憎しみの連鎖から抜け出していけると思います。

身近な人たちとの様々な対立があったとき、自分の尺度で相手を裁いている自分勝手な私があります。こんな私でも、神様は、赦し、生かし、愛してくださっていることをもう一度心に思い返しましょう。そうして相手を私と同じ愛で包んでくださいと神様に祈ることで、相手が私にとって隣り人となり、「共に喜び共に泣く」ことができるようになると思います。