神は私たちを創造してくれた私たちの親です。信仰的な観点から人はその親である神との語り合いである、祈りを通してより豊かに生きることができるのです。生まれた赤ちゃんが健康に育つために、空気をたくさん吸うことが必要なように、神の子どもとして誕生したキリスト者も、祈りという呼吸で健康に育てられるのです。
生まれたばかりの赤ちゃんにはお母さんの乳が必要です。神の子どもにとっての乳は、神のみことばです。聖書のみことばによって神がわたしたちを養ってくださるのです。
この詩篇1篇は「いかに幸いなことか」で始まります。新約聖書のイエス・キリストが語られた「山上の説教」と同じようです。この詩篇1篇から「幸いな人生」を送るためにはどうしたら良いのかが学べるのです。
ここには「植えられる」と「葉」と「実」ということからわたしたちと神様との関係を考えることができます。私たちの生活がいかに神のみことばに根差したものとなっているか。神の恵みの日差しを日々受けている葉のようであるのか。もしそのように生きているならば、時が満ちると必ず実を結ぶのです。

私たちはまず主に信頼する者になりましょう。現状には様々な試練があり、また見た目は神に逆らう者が栄え、神に従う人が苦しんでいるように見えます。しかし、今分からなくても主を信頼していくのです。
パウロは獄中からフィリピ人に「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と書きました。ヤコブは「わたしのの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と書きました。
最後にこの「すべて、繁栄をもたらす」という言葉に注目したいと思います。それは電車の窓から見た川沿いの満開の桜並木のように、わたしたちも「流れのほとりに植えられた木」のように、神様のみ言葉にベースを置き、喜びの人、幸いな人、そして幸福な人生を歩める人になれるように導かれましょう。