私はこの2月の説教は、スチュワードシップを覚えて語ってきました。それは礼拝の大切さ、祈りの重要さ、そしてみ言葉に信頼していくことについてでした。そして最終回は奉仕と神への捧げものである献金について語ります。

信仰者がなぜ献金するのか。それは献金をすることによって心を神様に向けられるからです。人の心がどこに向いているかは、その人のお金の使い方で分かるからです。イエスさまを信じていると言いながら献金をしていない人の心は神様でなく、どこか別の方向を見ています。また教会に献金がなければ、その教会は消滅します。献げることなしに教会は存在できないのです。「惜しまず豊かに蒔くことで豊に刈り取る」と聖書は語ります。パウロがコリントの教会へ、献げる金額を強制したのではなく、自分自身で決めてしなさいと言われました。

神はあふれるばかりの十字架の愛で、私たちを愛してくださっています。私たちはそのことを、献げる痛みで、イエスさまの十字架を覚えられるのです。そのような私たちに神様は恵みを豊かに与えられます。そしていつも我々の必要を満たされ、良いわざに富ませられる方なのです。この手紙8章の1~5節で、マケドニアの諸教会がどんなに貧しい中でも、惜しみなく献げ奉仕されたかを語っております。一方のこのコリント教会は商業が発達した町で経済的な余裕があったのですが、マケドニアの教会のように献げられませんでした。パウロは神様の祝福のためさらなる奉仕や献げものをこの手紙で勧められたのです。

神は種を蒔く人と食べる人である両者にパンを備え種を増やします。奉仕者や献金者にも神は義の実を豊かに増やしてくださるのです。そうです、ここでパウロは食物の種を献金や奉仕と重ねているのです。つまり奉仕をしたり献げることにより、神様はその人に祝福を豊かに与えてくださるのです。その神様に感謝致しましょう。