本日の聖書はとても有名な箇所です。私は子どもが小さい時、毎晩のように絵本「小さな小さな聖書の話」を読み聞かせました。そのうちの一話がここでした。読みながらいつも、「人が良い地になる」ということはどういうことかと考えていたのです。まず人が良い地になるのは、み言葉が実を結び、その実が『三十倍、六十倍、百倍にもなる』ことです。それはその蒔かれた種によって、その人にイエス様への信仰が芽生え、成長して、神にある働きが大きく花開くことです。

ここでは私たちは農家ではなく、地として例えられています。その地とは我々の心でもあります。その心の地が、農家である神様に色々と手入れをされるわけです。

色々と考えてみました。自分が地だとすると、自分は農家によって手入れをされるのが好きなのか。それとも手入れされない方が良いのでしょうか。手入れされないと、本当にのんびりとあるがままに時が流れて行きます。しかし自分という地に多くの雑草が生えるのです。そこに作物の種が落ちても、うまく芽を出しても実はつけないか枯れたりしてしまいます。

しかし自分という地が農家によって耕されているならば、うまく作物が育ちます。けれども地としてみると、自分という地が、つまり心が掘り起こされ、かき混ぜられるのです。人はそのことをあまり歓迎しない状況です。

その同じことが、わたしたちが福音を伝えようとする方々にもあるのです。その人にとっては決していい状態ではないかもしれません。しかしそれが神様の働きを通して、その方の心が良い地とされている時なのです。その時にその人へ伝えた福音の種が芽を出し成長し、花が開き実を結ぶようになるのです。わたしたちも、わたしたちが伝える方の心の地をも良い地にしてくださる方も神様なのです。わたしたちは神様に導かれて、人々に福音の種を蒔かせていただきましょう。人のピンチは神のチャンスなのです。