本日は平和を祈念する礼拝です。特に今年はロシアがウクライナに侵攻しているので、戦争の恐ろしさが伝わってきます。またウクライナから逃れて来た学生たちがわたしたちと共に礼拝に参加してくださったことで、ウクライナで起きている戦争を近く感じました。

イスラエルにおいての‘隣人’とは、同じ神への信仰をもつ同胞のことであり、神との契約共同体に入っている者のことです。したがってユダヤ人にとって異邦人は隣人ではありません。このようにユダヤ人の隣人の意味は、とても狭かったのです。それに対して、主イエスは敵をも愛することを求めております。つまりイエス様の言葉は‘敵を憎め’を否定するだけではなく、ユダヤ人の隣人愛を超える言葉でした。ここでは隣人と隣人でない者の壁を撤廃し、愛の対象は何によっても制限されないのです。

さらに、イエス様は善人と悪人の区別さえ超越しています。神がすべての人に「太陽を昇らせ、雨を降らせる」という場合、人間に対する神の働きは人間の良し悪しに関係ありません。神の愛が誰にもあることを知り、この愛によって私たちは、イエス様の十字架の贖いで神の子とされていることを理解するのです。そして敵を愛することは義務ではなく、神の子の本来の姿であることを知らされるのです。それがイエス様の十字架の姿です。

イエス様はわたしたちが罪人であったのに十字架にかかり愛してくださいました。そのイエス様の十字架の死はわたしたちの罪を赦す死であります。また復活は、私たちを罪の死の支配から解放し、永遠の命を与えるためです。この神の恵みと力を信じる時、私たちは神の子とされます。この神の恵みに生かされる時に、「敵をも愛す」ことができるようになると信じるのです。しかし私たちはすでに完全な者となっているわけではありません。大切なのは神の恵みを受けて日々新たにされることなのです。平和を祈りましょう。