我々が生活をしている中で、人間関係で苦労することがあります。今そのような思いがなくても、かつてそのような思いをしたことがあるかもしれません。我々はなぜ人を赦すことが難しいのでしょうか。あるいはどのようなことを通して人を赦るすことができましたでしょうか。

ここでのイエス様の例えは、王が一万タラントンの借金をしたしもべに対して厳しく返済を迫っています。この王は借金があって返せない人に対して、最初は自分、妻、子、持ち物全部を売り払って返済するようにと迫りました。そのしもべはひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願ったので、王は憐れに思い僕の借金を帳消しにしてやったのです。しかしこの僕は自分に借金をしている仲間を赦さなかったのです。主君は怒って、借金をすっかり返済するまで家来を牢役人に引き渡したのです。このイエス様の例えから、人を赦すことは自分が大きな犠牲を払うことがわかります。この王は一万タラントンという莫大なお金を失いました。私たちはイエス様の命という犠牲で罪を赦されたのです。

この話から、わたしたちが人を赦さないと、サタンに足場を与え、縛られて、自由を失うことになります。聖書はサタンは責め訴えるものとあります。また人を赦せず憎むと、その憎しみにより自分の心や体の健康を蝕むのです。だから自分を赦したり人を赦せることは、精神衛生上でも肉体的にも、そして信仰上にとっても素晴らしいことです。吉田敬太郎先生は牢獄で聖書に触れてイエス様を信じ、軍部に対する復讐心を神に委ねた結果、健康が回復したと‘汝復讐するなかれ’の自伝に書いております。

「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである」(箴言19章11節 新改訳)「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」(マタイ6章14節)赦し合いましょう。