現代にこのようなぶどう園は多分ないと思います。このぶどう園の経営者は、私たちから見ると無計画であり常識とはかけ離れています。経営者なら事細かな計画を立て、特に収穫時期においては綿密さが必要です。その収穫が一年の収入に大きく影響するからです。だからこのぶどう園が天の国として例えられるとは驚きです。

ここでの問題が放蕩息子の兄の問題とも共通すると思うのです。それはズバリ妬みの問題です。放蕩息子の弟が父から譲ってもらった財産をすべて失って帰ってきた時に父は弟を暖かく迎えたことを兄は赦せなかったのです。15節のねたむの本来の意味は目が悪いだそうです。私たちの心の目を表しているような気がします。つまり心の目が曲がると妬みが起こるのです。

私は昔からここを読むと、このように思っていました。それはどの年代でイエス様に招かれてクリスチャンになったかということです。朝のうちに雇われた人は子供の時分にイエス様を信じた人。朝9時ぐらいの人は青年期に信じた人。お昼くらいなのは働き盛りに信じた人。3時位の人は退職する時分の人。そして午後5時に雇われた人は人生の最晩年にイエス様を信じた人だと。そして、この1デナリオンとはイエス様にある永遠の命の報酬だと。人生のどんな年齢であってもイエス様に招かれてクリスチャンになったら同じ永遠の命を約束されていると考えたのです。

私たちは自分自身を何時から働いた人として思えるでしょうか。小さい頃からイエス様を知ることができた人は幸いです。私も悩んだ浪人生の前にイエス様を知っていたら良かったと何度も何度も思いました。人生の晩年にイエス様を信じた方はもっとそのように思われるでしょう。それもこれも神のご計画です。この世の価値観や我々の計画と神の計画は違います。神様は気前が良いのです。善い方です。私たちは他者と比べて妬む必要はないのです。ただ神に感謝を捧げましょう。