主の祈りを見てみますと十戒のように、神に関することと人間関係についての2つのパートに分かれます。そして最初の部分が神に関することで後半が人間関係についての祈りになっています。

キリスト教の祈りは、神との対話です。それにはまず、神が私たちを祈りに招いておられるのです。だから人はその神の招きに応えて祈ることができるのです。

祈りは自分の願いや要求を神にぶつけ、それが時には叶えられますが、叶えられないこともあります。それは自分の祈りが方向修正されるためです。私たちが子どもの頃、親に願っても聞いてもらえないことがありました。それは親から見て子どもに必要でないからです。祈りも同様であり、神は我々が何歳になっても、天におられるわたしの親だからです。

私たちは何よりも聖書を読むことを通して神の語りかけを聞くことができます。さらに現実の出来事や周囲の人々を通して、そのみ心(祈りに対する応答)を示してくださることもあります。心からなる祈りを神に捧げ、静かに神の語りかけを聴こうとする姿勢が何よりも大切なのだと思います。

最後に私たちはなぜ「イエス・キリストのみ名によって」と祈るのでしょうか。祈りは神と人間の対話ですが、私たちが語りかけるより前に神の側からイエス・キリストによって私たちを祈りに招いておられます。人は罪のために神に親しく呼びかけ祈ることはできませんでした。しかし神はイエス・キリストをこの世に送り、キリストの十字架によって人間の罪を赦されました。それゆえイエス・キリストが神と人の間に立って和解し、神との関係が回復されたのです。このイエス・キリストの十字架の赦しがあり、人間が神に親しく「アバ父よ」と呼びかけ祈ることができるように道ができたのです。また、「イエス・キリストのみ名」は私たちが誰によって祈れるのかを、はっきりさせます。そのようなことを主の祈りから示され学べるのです。