新約聖書を見ますとイエス様は多くの奇跡を行っています。この様子を見る時そのようなことは起こるはずがないと思うかもしれません。私はこの問いに関しては、いつもイエス様にある神の性質について考えます。それはイエス様も神であるということです。しかしイエス様がこの地上におられた時は、いつも父なる神の許しがなければ何一つ奇跡を行わなかったのです。神であるならば全てを創られ、全ての法則も創られ、また作り変えることもできるはずです。ですから嵐を静め、水の上を歩き、人を変えることもできるのです。また人を変えられるならば、イエス様を信じたことで変えられる新生体験をすることもできるのです。
イエス様が奇跡や癒やしを行う時、ご自分の栄誉のために行っていません。カルトと言われるものは不思議なことを行うことで、その教祖の名誉を高めようとします。自分に栄光を帰そうとするのです。しかしイエス様は栄光を父なる神に帰します。あくまでも父なる神を褒め称えることが第一だからです。またイエス様が癒やされる時には、その人を愛し憐れみ深く思われるから行います。但しその人をそのように思われても癒やされないこともあります。癒やされないことがあるということは、病にも意味があるのです。だから信仰者には忍耐が必要です。
またイエス様の癒やしは、神の国の到来を告げるものです。完全なる神の国の到来はイエス様の再臨以降になります。イエス様の癒やしや、死人を蘇らせることはその神の国のきざしを見ることです。またイエスさまによる罪からの開放と病からの開放には多くの共通点があります。それはイエス様が病を癒すことによって、より難しい罪からの開放を行う力があることを示すからです。また癒やしを通して旧約聖書が語るメシア性を成就し、自分が神から来たメシアだと示しているのです。
本日はそのようなことを考えつつバルティマイの物語から学びましょう。