今月はスチュワードシップで、本日は献金について話します。イエス様、そしてパウロは当時の常識である農業を通して人々に福音を教えました。

なぜ我々は献金をするのでしょうか。それは献金をすることにより、我々の心を神様に、そしてイエス様に、さらにはキリスト教会の活動に向けられるからです。人の心がどこに向いているは、そのお金の使い道で分かるのです。だからイエス様を信じていると言いながらも、神さまのために、あるいは教会のために献げものをしていない人は、自分の信仰を見直さないといけないでしょう。

神様はご自身のあふれるばかりの愛で、わたしたちを愛してくださり、恵みを豊かに与えられる方です。そして我々が良いわざをできるように導かれる方なのです。この手紙の前の章、8章1-5節においてマケドニア教会がどんなに貧しい中でも惜しみなく献げられたかを語ります。一方のコリント教会の人々は、経済的な余裕があったのですが、マケドニアの教会のようではありませんでした。だからこそパウロは神様の祝福のために献げなさいとコリント教会の方々に勧めたのです。

イエス様は神として富んでいましたが、人として貧しく生まれてくださったのです。わたしたちも神様の愛により、イエス様の十字架の犠牲によって信仰が与えられました。イエス様による救い、復活による永遠の命の希望が与えられたのです。わたしたちのいのちも全て神様に与えられたのです。せめてわたしたちの収入のいくらばかりを神様に捧げることによって、その恩に報いることができるのではないでしょうか。また捧げる厳しさを通して、イエス様の十字架をも感じられるのです。人がイエス様の苦しみを体験できることとしては、人を赦すことと、献金の痛みを通してだと思うからです。そして献金を通して神様に感謝を覚え、また必要が満たされることをも体験したいのです。