人生における不確定要素があると自分自身が混乱するような思いになることがあります。そのような時に祈りに追い込まれ、祈らないとどうにもならないことがあります。私はこの4月から連合の会計を引き継ぎましたが、色々と慣れないことがあり、責任が伴います。その奉仕を成し遂げるには祈りが必要だと日々実感しております。この奉仕をしよう。でも不安を覚える。思い通りに行かない。では祈ろうという具合です。

イエス様は神でありましたが、傍観者として人を見られておられたのではなく、自らがへりくだり人となられて人生を経験してくださいました。そして僕として仕えて下さったのです。普通の人としての貧しさや、病気や怪我もされたのでしょう。人として悩み、悲しみも経験されたのです。そして最後には、この世的には犯罪人として処刑され、死を経験しました。しかし復活して今は私達と共にいてくださるのです。

神様の人の評価は、その人がどれだけ自分を低く出来るかを重んじます。まさに自分がしている良い行いを右手がしていたならば、左手に知られないように、また誰かのために断食して祈っているならば、その断食が人にわからないようにするのです。

キリスト者は罪赦された罪人と言われます。そのことを忘れると、自分には罪がないと思い込んでしまいます。そうなると傲慢なクリスチャンになってしまいます。クリスチャンは罪を赦されていますが、依然として罪の性質は残っているのです。その部分ではクリスチャン、ノンクリスチャンの違いは、ただイエス様を知り神に戻ることを知っているだけです。

対人関係においてイエス様が今の自分の立場ならならどうされるかと想像すると良いのかもしれません。箴言11章2節では『高慢には軽蔑が伴い謙遜には知恵が伴う』とあります。高慢さがあると人を軽蔑し、謙遜すると知恵がやってくるのです。イエス様の姿勢に習いましょう。