ヨハネの黙示録は新約聖書で唯一の預言書です。ヨハネはここを預言的な意味として、神からの言葉を記しました。1章の10節を見ますと、「ある主の日」、つまり日曜日にこれが書かれたとあります。ヨハネは礼拝中、または礼拝後に、これを書いたのでしょうか。まさに週の初めの日の礼拝の時に、神様はわたしたちに何かを示されることが多いのです。
ヨハネはこの時、パトモス島にいました。そこは大陸から約100キロ離れ、地中海貿易の要所でもありました。かつてのナチスドイツも有力な牧師たちを戦地に送って信徒たちから離したそうですが、同様にヨハネも迫害によって教会から離されてしまったのです。しかしヨハネは教会を覚えて祈っていた、そのような時に神はから語られたのです。そして神にこれを書き留めて教会に送れと言われたのです。それが主の日でした。
ここに書かれているイエス様の天上での姿は「足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた」とありこれは、ユダヤ教の礼拝時に大祭司が着る服装のようです。つまりイエス様は天上で大祭司としての勤めを行っておられたのです。そして「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」と言われました。ヨハネはパトモス島にいた時、いつ殉教するのかと恐れていたでしょう。しかし復活されたイエス様が死と陰府の鍵を手に持ってるので、死に囚われ続けることはないという希望を持てたのです。それがヨハネの黙示録が持つ福音の知らせなのです。
例え囚われて裁かれ殺されたとしても、復活の主イエス・キリストが死と陰府の鍵を持つならば、イエス様がいつでもその鍵を用いて、その人を開放してくださるのです。誰がわたしたちに敵し勝つことができるのでしょうか。誰もいないのです。その希望を持ちつつ、恐れずにイエス様に信頼して我々は導かれて行こうではありませんか。