このヨハネの福音書21章は復活されたイエス様を記した箇所です。その前の20章では復活されたイエス様に何人もの方々が会っています。この弟子たちもそうでした。弟子たちは復活の主に「シャローム、平安がありますように」と祝福を受けました。そしてこれから何をするべきなのかという指針が与えられていたのに、弟子たちはティベリアス湖つまりガリラヤ湖で漁をしていたのです。なぜ漁だったのでしょうか。あれほどイエス様に声をかけられ祝福されて指針も与えられていたのに、弟子たちはイエス様の思いとは裏腹に漁をしていたのです。やるべきことがわかっていながら具体的に何をなすべきかがよくわからなかったからです。

弟子たちは、この時、落ち着かないし心苦しい思いがありました。何で自分がと言う思いもあったでしょう。そのような時に漁に行こうかという思いになったのです。皆様がイエス様の弟子の立場だったら何をしたいですか。昔していた何かを行うことでストレスを発散したいなら何をしますか。この弟子たちにとっては漁だったのです。

それはペトロが「わたしは漁に行く」と言って、他の6人も、「わたしたちも一緒に行こう」と付き合ったからです。トマスとナタナエル以外は元々漁師でした。つまりこの5人にとっては昔取った杵柄の漁だったのです。この5人にとって‘その夜は何もとれなかった’と言う体験については思い当たる節がありました。実はイエス様は、ここにいた弟子たちに再び、あの時の召命を思い出させようとしたのです。

アメリカでは多くのクリスチャンが魚のマークを車に付けています。‘神の子、我々の救い主、イエス・キリスト’と言うギリシア語の頭文字を並べると‘魚’という文字になるからです。

イエス様はやるせない思いでいた弟子たちを再び勇気づけ、そしてこれから起こる聖霊の力添えで新たなる道を切り開く準備をここでしてくださったのです。