先週の月曜日は幼稚園の毎年恒例の花の日礼拝をここで行いました。子どもたちが家から持ってきた花を、それぞれお世話になっている人々に届ける年間行事になっております。

旧約聖書の時代、人々は常にエデンの園を理想郷としていました。それは神様が人に与えた環境であり、それが最も人にふさわしい場所であったからです。そしてエデンの園は実に自然が豊かであり、自然界のバランスが取れていた所です。エデンの園で神様は、人に自然界の管理を任せていたのです。エデンの園に自然の恵みがたくさんあったからこそ、人は自然を見たりその中で過ごしますと、心に安らぎが与えられるのです。

悩むわたしたちに、イエスさまは空の鳥を見なさい、野の花を見なさいと言われました。イエスさまは私を見なさいとは言われましたが、他の人を見なさいとは言われませんでした。ここでは人ではなく空の鳥、野の花を見なさいと言われました。なぜ空の鳥、野の花なのでしょうか。これらは思い煩わない存在です。

こんな明日枯れてしまう野の花も神の作品で本当に美しいものです。神様は人を空の鳥よりも野の花よりも大事にされています。神様は私達の経済的な状況も支えてくださいますし、体もいのちも守ってくださるのです。

34節では思い悩むことが、明日のことを思い悩むなと言い換えられています。つまりは今日の出来事を素直に受け入れないと、明日はもっと受け入れられないと言うのです。この34節の冒頭に「だから」とあります。それは神のご支配です。神のご支配があるから大丈夫だというのです。

神の国と神の義を求めるとは、わたしたちの必要なものを知る、天の神を信じることです。神様を信頼しきることです。昔の修道院の標語は「祈りつつ働きつつ」であったようです。神のご支配に委ね、本日の歩みをゆったりと受け入れていきましょう。

あじさいコンサートを通して野の花を見なさいが思い出されますように。