日本に住む私達は、日々体に良い物を食べようと心がけています。また家族にも良い食品を食べさせようと心を配ります。体はまさに食べ物によって知らず知らずに日々作られるのです。その食べた物により、いつしか体が出来上がり、健康が支えられているのです。

では我々の信仰にとって、またその成長に欠かせないものは何でしょうか。それはみ言葉である聖書の言葉です。聖書の言葉を通して我々の信仰は、日々養われて成長するのです。わたしは普段から信仰にとって欠かせないものとして、聖書の言葉、祈り、教会生活と思っております。聖書の言葉は信仰の食べ物であり、祈りは信仰の呼吸です。そして教会生活が信仰の実践の場なのです。(もちろん日常生活でも同様です。)

肉体が良い物を食べなければ健康でいられないのと同じように、信仰にとっては聖書のみ言葉をいただくことが大切です。もちろんこのような礼拝でも、み言葉をいただくことはできます。ある方は礼拝でみ言葉をいただくことは、ごちそうに例えられると言っていました。そして自分で毎日いただくみ言葉は、普段の食事です。そして日々み言葉をいただくことは、礼拝にもまして大切なものだと言うのです。そのように週一、信仰のごちそうをいただくことと共に、毎日信仰の糧をいただくのが、いかに大事なのだと思えてきます。もちろん教会生活を通して、共にみ言葉を分かち合ったり、み言葉を共に実践をすることも、とても大事なことです。

ヨハネ15章5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあります。我々が枝として、そのぶどうの木であるイエス様とつながることが、イエスさまのことばを頂くことなのです。しかも毎日いただくことが大切なのです。だからこそ日々信仰の糧である聖書の言葉を頂こうではありませんか。