ここで言われているように、私たちは地の塩、世の光であろうかと言い切れるかと問われると、全く自信はありません。しかしイエス様は、そのような私たちの現実を知りつつも、それでも、あなた方は地の塩、世の光だと言われているのです。
それでは地の塩、世の光とは何を指しているのでしょうか。それはこの教会を指して例えています。この教会があるおかげで、この世や町が神の光を見ることが出来るのです。だから私たちは「地の塩、世の光だよ」とイエス様は私たちに語ってくださっているのです。そのようにあなた方は輝いているのだとイエス様は言われているのです。
塩が塩でなくなり、光が光でなくなるのは非常に不自然です。そのようにキリスト者が人々を照らす光であることを辞めるのも不自然です。ここで言う立派な行いとは美しい行いとも訳せます。その行いとはイエス様を示し、その光を反射させる行いです。
料理で塩は自分を隠して他を引き立たせます。甘酒を作る時には甘さを引き立たせるために、私は少量の塩を入れます。スイカの甘さを出すためにも、塩を少々かけます。また聖書で‘塩をきかせた言葉’というのもあり、その言葉は、その人を引き立たたせ、元気づけ、勇気を与え、信仰を導く言葉なのです。
私たち教会はそのように、地の塩、世の光としての役割が与えられています。少なくてもイエス様はそのように私たちを見ておられるのです。そうです、私たちはイエス様の十字架、復活を伝え、イエス様の言葉を周りにいる方々に伝えることが神様に期待されているのです。
我々が光と言われてもイエス様の光を反射させる存在であり、それは太陽の光を反射させる月のように、その言葉をこの世界に照らすのです。また地の塩としてこの世界の魅力を引き出すことができる私達と期待されています。だからわたしたちは恐れずに堂々と行うことができますように神に祈りましょう。