この放蕩息子を多くの画家が描いています。私が忘れられないのはルーベンスの2つの絵です。1つ目はルーベンスが結婚して間もない頃、妻を膝の上に乗せて愉快に酒を飲んでいる絵です。彼は妻と共に料理を食し乾杯している自分の姿と、この放蕩息子を重ねて描いています。2つ目は放蕩息子が父親に出迎えられたシーンです。この息子は貧しい身なりで痩せこけ飢え渇き坊主頭で、悔い改めを現すかのようにして跪いて父親と再会しています。まるで二人の会話が聞こえるようです。

この息子は財産を持ち出して家出し、父の支配の及ばない異邦人の地に向かいました。その後お金がなくなると共に楽しみや、彼を助ける友も消えたのです。そして飢饉があり、彼はユダヤ人が嫌う豚の世話をするようになりました。そして豚の餌すらも食べたいと思う惨めさと誰も食べるものをくれる人がいない孤独の中で、彼は「はっと」気がついたのです。誰が自分を本当に愛してくれていたのかと。そして悔い改めるのです。

この息子は自分の現在の状況から目覚めると帰るべき所は父親の所だと気付き、その場所から父親の所に戻ろうとします。この立ち帰りが悔い改めへの決断であり、父親に対しての罪の告白であると同時に、神に対しての悔い改めにもなるのです。彼は父親の元へ向かいます。

しかしまだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。これは息子の悔い改めに先行する父の愛と赦しであり交わりの回復のしるしです。父親は自分が与えた財産を使い果たし、惨めな状態で帰ってきた息子を再び自分の息子として歓迎したのです。

神様は、わたしたちがイエス様を信じる前からイエス様を十字架につけ、わたしたちの罪の犠牲を支払ってくださいました。今日の放蕩息子の父親のように、神様はわたしたちを待っていてくださったのですね。神に感謝しましょう。