人生には、神を信じる人にも神を信じない人にも等しく災いが下ることがある。東日本大震災が起こったとき、大船渡市で被災した山浦医師にマスコミが尋ねた。「なぜ、神は、罪もない人々をこのようなひどい目に遭わせるのか」。山浦医師はこう言った。「気仙の人間はけっこう信心深いのです。・・・でも、なぜ仏さまは助けてくださらなかったのか、なとど、バカなことを言う気仙衆は一人もいないです」。「なぜ」と問うのは意味がないと言う。そもそも人間には、「死ぬ」ことと「苦労」することが定まっている(創世記3章)。だからと言って、神は人間の敵となったのではない。神は人間の味方だ。私たちは、御子イエスが語った言葉や数々の奇跡の御業を通して、神のその思いを知ることができる。

私たちの本当の敵は別にいることを知らなければならない。その敵というのは、私たちを神の愛から引き離そうとする何か。しかし、イエス・キリストを通して、天地を造られた唯一の神が味方であることを知る者にとって、これらのものは、もはや何の意味も持たない。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38~39)。神が私たちの味方である証拠は、神が私たちに御子イエス・キリストを遣わされた事実で分かる。イエス・キリストが、私たち人間と神との間に立って、神に執り成してくださっている。何と、すばらしいことか。

神学者の寺園喜基先生は、神は私たちに「苦しむ能力」を与えていると言う。信仰を持って生きるとき、苦く苦しい経験を避けては人生の深い喜びも福音の深い喜びも味わえない。神は、私たちの味方であり、苦しみのときは、それに耐え得る力を与えてくださる。そして、その苦しみから、すばらしい恵みを与えてくださる。