聖書の中で、イエス様もパウロも、わたしたちを農作物に例えています。特にここでは植物の成長と、わたしたちの信仰の成長を重ねて見ています。わたしたちは誰かからイエスさまの福音を伝えられました。または聖書を読んだで導かれた方もいるでしょう。いずれにしても伝えたり、聖書をもたらした方によって、我々に福音の種が蒔かれたのです。その種がわたしという土壌で芽が出てくるのです。

わたしたちがイエス様を信じたばかりの時は信仰上の赤ちゃんです。聖書の言葉もわかりやすい乳のような聖書の言葉を頂きながら成長します。そしてある程度成長して行くと、分かりづらかった固い聖書の言葉を理解できるようになっていくのです。だからこそ礼拝や教会学校や祈祷会での聖書の共なる学び、また個人の祈りと聖書を読むデボーションも必要でしょう。

ここで言う「わたしはアポロに」とか「わたしはパウロに」と言う言葉はまるで、教会内での人気投票のようです。そしてこの二人は所詮、信仰を導くために神様によって派遣された人に過ぎないとパウロは語るのです。パウロはコリント教会の人たちに信仰を植えました。そしてアポロはその信仰に水を注いだのです。これはアポロがコリント教会の人たちの信仰の成長の手助けをしていったことを表します。このパウロやアポロがすごいのではなく、ほんとうの意味で信仰の成長を与える神を見なさい。神に注目しなさいとここで言われているのです。神が信仰を成長させてくださる張本人だからです。

わたしたちは教会に働かれる神を、そしてわたしたちに働きかける神を信仰的に見たいのです。なぜイエスさまは、この私のために、わたしたちのために命を捧げてくださったのでしょうか。そしてなぜイエスさまが死に打ち勝ち復活された意味も絶えず問い続け、そのように愛してくれたイエス様のためにわたしたちは何ができるのかと導かれましょう。