ユダヤの民衆は、ヨハネが生まれる前から注目していました。それは父ザカリアが神殿で天使によりヨハネの誕生が予告されていたから、人々はヨハネがどのような人物へと成長していくかと期待していたのです。ヨハネは成長して人々の前で語り始めました。ヨハネが語る言葉に人々はヨハネに注目し、そして人々はヨハネこそメシアではないかと心の中で考えていたのです。その人々の期待にヨハネ自身は気がついていました。しかし人々がそのように考えると、神から導かれた自分の働きができないと思ったヨハネは、はっきりと自分はメシアではないと人々に伝えたのです。ヨハネは栄光は自分に向けられるものではなく、神や救い主に向けることが大切だと思っていのです。さらにヨハネはメシアではないと宣言しただけではなく、メシアの奴隷以下だと語りました。

バプテスマのヨハネが捕らえられる前、イエス様はあえてヨハネから民衆と同じようにヨハネの悔い改めのバプテスマを受けました。そうです、イエス様はその必要がなかったのに、あえて我々に手本を示して、水のバプテスマを受けられたのです。我々もイエスに倣い、信仰者としてバプテスマを受けるのです。そしてこのイエス様が受けたバプテスマこそが聖書の教える洗礼方式として、実践したのがバプテスト派なのです。

イエス様がバプテスマを受けられ祈っていると天が開けました。今まで私はイエス様がバプテスマを受けられただけで神様の声があったと思いました。しかしここではイエス様が祈った後に神の声があり、祈ることの大切さも語られています。その神の声は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」でした。これは詩篇2篇からの引用で、そのみ言葉は王の即位に用いられたものです。つまり父なる神はイエス様がバプテスマを受けられて祈ることにより、イエス様をまことの王、メシアとして認定をしたのです。