イエス様は十字架に架けられました。釘打たれ出血し、喉が渇き、呼吸する時には自分で体を持ち上げ、その度に傷口が開き出血するのです。しかしこのことは神の御心でした。我々と神の溝をつなぐにはイエス様の犠牲が必要でした。

地上の大祭司は年に一度、神殿の聖所の最も奥にある天幕によって仕切られていた至聖所に入り儀式を行いました。そこに入る時、大祭司は傷のない家畜の血を携え、神の名を呼び、まずはその血によって自分の罪の赦しを神に祈ったのです。次に罪赦されたものとして今度は民の罪の赦しを祈りました。

ヘブライ人信徒への手紙には、このイエス様の十字架の姿とは別の天における大祭司としての姿があります。そのイエス様は、天の真の大祭司として、天の至聖所に入り、自分の血を携えて、我々の罪の赦しを祈ったのです。地上のイエス様の姿は十字架で血を流し死んでいく姿でしたが、天上では、まことの大祭司として、天の至聖所で自らの血を携えて我々の罪を赦してくださったのです。

現在世界には人をゆるせない人々が大勢います。特にキリスト者はイエス様の十字架の犠牲によって罪が赦されているのですから、人をゆるしていくのが当然です。もちろん人をゆるすのは簡単ではありません。主の祈りの中で、「我らに罪を犯すものを我らをゆるすごとく、我らをゆるしたまえ」とあります。つまりわたしたちが人をゆるさなければ、神は私たちを赦さないと祈っているようなものです。そして人をゆるす時に、神が我々を赦した気持ちがわかります。それは人をゆるすことで、ゆるす者がもがき苦しみ、葛藤することでイエス様の十字架の気持ちを体験できるからです。

そして人をゆるしあえるならば、戦争は起きず平和が生まれるのです。だからマタイが言っているように「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」となるのです。