わたしたち親子は、決して損得勘定の関係ではなく愛情の関係です。親が子を見る時に、その子の能力や容姿に基づくものではなく、存在そのものが大切です。

神様との愛の関係を表す聖書の話に「放蕩息子」の例えがあります。父親の財産を先に分けてもらい、遠いところに旅立った息子が、放蕩に身を持ち崩して、全財産を使い果たしてしまうのです。やがて人生の厳しさを身に染みた息子が父親のもとへと帰って行きます。「もう息子と呼ばれる資格はない。でも雇い人の一人として置いてもらおう。」そういう悲しい決心をして、息子は父親のもとへと帰って行くのですが、父親はこのボロボロになった息子を、遠くの方から見つけて走り寄り、そのままで受け入れ、抱きかかえて受け入れたのです。神様はこのような父親なのだとイエス様は聖書で教えてくれます。

ではどのようにしたら神の子になれるのでしょうか。12節に「しかし、言(イエス様)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。本日の本題はこの神の子となる資格についてです。この資格を口語訳聖書では力と訳し、文語訳では権、権力の権と訳しております。大元のギリシア語では、この言葉が外にあると言う言葉を用いています。それは自由に外にいるという意味です。もっとこの言葉を発展させると、自分は束縛されないけれども相手を束縛するという意味になるようです。それで支配とか権威という意味になるのです。権威は外にいるのです。英語ではこの言葉を神の子となるオーソリティー(権威)と訳してます。もう一度12節を見ると、「しかし、言(イエス様)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」となるのです。つまりクリスチャンは神の子の権威を持つと。権威には特権や力があります。神の子になる特権がイエス様を信じる者にあるというのです。