聖書の時代、生前贈与があっても管理権は親にありました。ある人に息子が二人いて、弟の方が生前贈与全部とりまとめて持ち出して家出したことは明らかに律法違反になります。そしてこの弟が遠い国に旅立ったことが意味するのは、父親の支配の及ばない異邦人の国に行ってしまったのです。
この後、弟の生き方の愚かさが現れました。父親の影響がなくなると、彼は遊びほけて金がなくなり助ける友も消えたのです。そして悪いことに、その地方でひどい飢饉も発生したのです。
弟は豚の世話をするようになり、その豚の餌すらも食べたいと思う惨めさの中にいましたが、誰も食べものを与えてくれません。その時彼は「はっと」気がついたのです。それは誰が自分を本当に愛してくれていたのか。その人こそ彼の父親だったのです。このような人生のどん底の時にこそ、人は本心に立ち返えることができるのです。
この弟は父の愛に気づいた時に悔いたのです。そして、そのことばを父親に伝えようとしました。それはやり直したいことと、父の雇い人の一人にしてくれと言うものでした。しかし父親は弟の悔い改めの前に、既に愛し赦していたのです。
そのように弟は父の先んじた愛の後に悔い改めたのです。イエス様の十字架の愛と赦しに対する、わたしたちの応答も悔い改めなのです。確かに私たちはありのままイエス様の十字架で赦されました。しかしその状態に留まるのが良いのではなく、神の望まれるように導かれ、応じていくことが大切です。そのことを通してイエス様が歩まれたように導かれるのです。自分が神に受け入れられた状態から、イエス様の思いへと導かれていくのが悔い改めなのです。ある人がある牧師に、いつ悔い改めたら良いのですかと尋ねました。そうしたらその牧師は毎日悔い改めるのだと答えたのです。そうです日々悔い改めです。そしてそのことによって私たちは新たにされるのです。