「主の祈り」との出会いは、職場での朝礼でした。朝礼では、クリスチャンの教職員が司会をして、讃美歌、聖書朗読、お祈りをしています。そのお祈りの時に、時々「皆さんで主の祈りを祈りましょう」と言われるときがあり、それに備えて暗記して、祈るというよりも意味もわからず声を合わせて言っていたというだけでした。主の祈りの大切さ、素晴らしさを実感したのは、バプテスマを受けた後です。
マタイによる福音書では、山上の説教の中で信仰生活において大切なことの一つである「祈り」について語られ、それが主の祈りとなっています。そして、祈り方については、6章5節から8節までに述べられています。5節に「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」とあります。これまでの私は、「私は主の祈りを暗記しています。声を合わせていますよ。」というアピールをしながらの唱和で、偽善者で、祈りにもなっていませんでした。
数年前、私は人に裏切られ、嫌がらせを受け、つらい時期を過ごしました。そして自分自身も周りの方達に迷惑をかけているのではないか、こんな私が人様に顔向けできるのか?と思い悩み、礼拝のために教会に通うことにも罪悪感を抱くようになりました。
ある日の礼拝で苦しさを感じながら「主の祈り」を祈りました。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」と口に出した時、目の前に真っ白い光が差しました。
イエス・キリストは、わたしたちの罪を贖い、信じる者に赦しを与えるために十字架にかかってくださいました。人は何度も罪を犯してしまいます。「主の祈り」を祈るたびに、私たちの罪を赦し、心の平安に導いてくださる神様を崇め、感謝します。