本日は今年最後の礼拝となりました。さまざまな出来事のあった1年でしたが、神様が全てを導かれて良しとしてくださったと、わたしたちは信じて感謝致します。

ここは「主の奉献」と呼ばれるもので、それは救い主だから特別に行われたのではありません。イエス様は多くの人びとと同様に、赤ちゃんの時には聖別され、また大人になりバプテスマを受けられたのです。

赤ちゃんイエスはそのように一般のユダヤ人の家庭に与えられた長男と同じように、奉献の儀式が神殿で行われました。それは律法にあるように「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」ことを両親が実行するためでした。合わせて「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」からです。この山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽を献げることは、この儀式の最低のラインで、ヨセフとマリアがどれほど貧しかったかを示すものです。

神の導きがシメオンにもありました。シメオンは特別に信仰的な職業に就いていたとは書かれていませんが、イエス様に対して、まるで祭司のような役割を担ったのです。もしかすると、祭司によって祝福を受けるためには特別な人の赤ちゃんでなければいけなかったのでしょうか。イエス様は祭司によってではなく、み言葉に忠実であろうとした一般人のシメオンによって祝福を受けたのです。このことがバプテスト的な感じがすると思うのは私だけでしょうか。

この福音書を記したルカはシメオンが老人であったと語ってはいませんが、これに続くアンナの年齢が記されていることでシメオンが老人と考える人が多いのです。私はこのシメオンと母方の祖父母や父を重ねます。皆人生の晩年にイエス様を信じることができたからです。そのように私たちの家族伝道も、シニアの方々も救われることを、このシメオンの姿を見ながら祈りつつ導かれましょう。