私がイエス・キリストを救い主と信じたのは、このキリストにある命を得られることを知ったからです。つまり死に打ち勝つ力をイエス様は持っておられ、それを信じるものに与えられると分かったからです。この聖書の26節にある言葉「命」をある説教者は魂と言い換えております。この魂とはわたしたちの存在そのものです。自分が望む世界を得たとしても、命、自分の存在を失ったらどうしようもないという聖書の言葉です。

ペトロはイエス様の十字架の意味を全くわかっていませんでした。そしてペトロは自分の命の尊さも分かっていなかったのです。わたしたちの持つ命とは、全世界を手に入れることよりも大切なものだと。だからイエス様は命を十字架で犠牲にするほど、お前の命は大切なのだと語られたのです。

もしかするとペトロは、イエス様を通して、自分の望むものを手に入れようとしていたのかもしれません。それはローマ帝国からイスラエルが独立して、かつてダビデ王が建国したイスラエル王国を再建して欲しいと願ったからです。ペトロにも野望がありイエス様を通してこの世界を手に入れたいと思っていたのです。

わたしたちはイエス様の命に預かったことを毎月の主の晩餐式で再確認します。裂かれたパンを互いに分かち合い、そしてぶどうの盃を飲み合うのです。その主の晩餐式を通して今日の説教で語るところの、わたしたちの命の尊さを確認するのです。そしてわたしたちの命のためにイエス様はご自分の命を捧げられたことを噛みしめ、血を流された苦しみを想起するのです。つまり主の晩餐式を通して自分の命の大切さとイエスさまの犠牲を共に味わうのです。

新改訳聖書のイザヤ書43章4節では「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」とあります。この聖書の言葉を自分の部屋に飾っている時がありました。この聖句によって私はどれほど勇気づけられたでしょうか。