このペトロは、イエス様をはっきり見て、その言葉を聞いた人です。そして十字架上のイエスさまの姿を見て、その後に葬られた空っぽの墓も目撃しました。そして何度も復活のイエス様と出会い、話もしたのです。ペトロは、そのようなイエスさまの直接の目撃者として、この手紙を持たせ、または自らが持ってこの手紙に記されている複数の教会を訪ねていきました。そして最後にはローマで殉教したと言われています。

このペトロの手紙は、ペトロ自身が書いたというよりも、5章12節に出てくる、ギリシア語に堪能なシルワルがペトロの言いたかったことをまとめたようです。それはガリラヤの片田舎で育ったペトロは、これほど完璧にギリシア語が書けるわけがないというのが理由の一つのようです。

信仰者はどのように祝福を判断できるのでしょうか。一日を終えて眠りにつく時、欲しいものが安く買えたから、今日はラッキーだったと思うでしょう。聖書の祝福はそのような幸運さを言うのではないように思えます。しかし、わたしたちは案外そのようなことで神様の恵みを判断することが多いように思えるのです。

14節後半では「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」とあります。この聖書の時代、キリスト者は悪口を言われることが日常茶飯事だったでしょう。それでも良いと聖書で言われながらも、内心は人々を怖れ心を乱していたのです。その対処の秘訣こそが、15節にある「心の中でキリストを主とあがめなさい」ということです。

このあがめるとは「聖なるものとする」と言う意味です。これは言い換えるとキリストを神のものとすることです。あるいはキリストは神そのものだとか、キリストを重んじることです。つまりイエス様が十字架の苦しみを通して、わたしたちを神のもとに導いてくれたことを重んじることで「人々を恐れたり、心を乱したり」しないようになると語っています。