受難週を迎えました。この週は共にイエス様が十字架に向かう言葉を聞き、祈りを捧げる週です。わたしたちは、この週を覚えて、どのように歩んだら良いのでしょうか。私はメル・ギブソン監督の映画「パッション」を思いだします。その映画によって、イエスさまの苦難を間近に感じました。音楽ではバッハのいくつかの受難曲で、イエス様の苦しみを聴くことができます。聖書の言葉に耳を傾けて、キリストの受難の意味を深く問うことはとても良いでしょう。そのことが受難週の大切な意義とも言えます。聖書のみ言葉に聞きつつ、救い主の苦難の意味を神に、そして自分にも問い続けるのです。いったいイエス様の苦しみとは何のため、誰のため、そして自分にとってどうだろうかと思いを馳せるのです。

エチオピアからエルサレムに礼拝に来ていた宦官が、帰り道に馬車に揺られながら朗読していたのは、このイザヤ書53章でした。この宦官は聖書の意味を自分に問いかけていました。彼は聖書を読み、フィリポにみ言葉の意味を聞きました。彼は聖書に書かれてある言葉と、自分の生活、そして信仰の関係を問うたのです。

そこに書かれていることは、「自分のことではないのか」と心配し始めていた宦官は、フィリポの説き明かしによって、イエスさまの福音を聞きました。そのイザヤ書53章で書かれる苦難は、すでにイエス様が十字架によって罪を負ってくださり、自分の罪が赦されたという福音です。そして宦官はイエス様を救い主として信じたのです。その後宦官は、フィリポからバプテスマを受け、喜びにあふれて旅をつづけました。エチオピアでは、その後多くの人々がイエス様を信じていったので、この宦官の影響が大きかったのかもしれません。

イエス様が十字架で傷つけられなければ、私たちは救われませんでした。その傷で我々の傷がいやされました。また何かある度にイエス様に心の思いを告げていやしを受けることができるのです。