なぜ福音書は4つあるのでしょうか。それは聖書がイエス様を4人の視点で語られようとしたからです。4人の盲人と、ある動物の例えを思い出します。最初の盲人は、その動物がツルツルだと言いました。二人目はその動物はザラザラだと。三人目はふわふわしていたと。四人目は長い毛のある動物だと。この動物とは象です。一人目はキバ、二人目は皮膚、三人目は耳、四人目はしっぽを触ったのです。この四人とも象のある特定部分について語りました。違う意見ですが皆正しかったのです。それらを総合して象がどのようなものかを知ることができます。

わたしたちもイエス様に対しての思い入れには違いがあって当然です。同じイエス様でも、そのイメージは多様です。もし皆同じイエス像ならば、カルト化してしまうかもしれません。前任地では、わたしたち教会が一つになれるのは、イエス様がわたしたちのために十字架にかかり復活した救い主であるとのことを信じることでした。

本日の聖書箇所はパウロが「教会はどうあるべきか」を人間の体でたとえました。パウロは「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成り立っています」、また「一つの部分が苦しめば全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶ」とあります。教会はイエス様によって多種多様な人々が集められる場です。

教会は牧師だけではどうにもなりません。それぞれの働きを通して、礼拝を休んでおられる方々へ週報を送り、教会に来ることの出来ない方々へ手紙を送り、祈祷会参加者は祈るのです。牧師ができないことを他の方々が補い合うのです。そのことによって、教会が教会にされていくのかもしれません。そのようにして教会は、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ことができるのです。それぞれの働きを尊重し合いましょう。