先週、北九州地方連合の牧師会・配偶者会を、この教会で開催し、16名が集うことができました。私は牧師会幹事としての働きや、‘キリスト教学校で教えること’についての発題をさせて頂きました。今日の説教題は、先週の他の働きとの兼ね合いを含めて、教える大切さと言う題を選びました。
私は元々、聖書のモーセのように口が重く、語るのが苦手な人でした。中学生の時「ともちゃんは、数学はできるのだけど、教えるのは下手だね」とよく言われました。そのような私でしたが、大学、特に神学校時代、数学を教えることで、生活費や授業料を賄えることができたのです。まさに「芸は身を助ける」のようでした。しかしあまりにも、その働きで時間が拘束されるので、肝心の神学校での学びに時間が割けなく、神様に祈りで何度も文句を言ったほどです。神様は、私に教えるとはどういうことかを、導き鍛えてくださりました。この苦手なことを通して、私は神様に実は導かれていったのです。それまで私は、人前で語ったり、教えることが苦手であったので、このような歩みが絶対に必要だったのでしょう。
私は留学中次のような方に出会ったことがありました。彼は東京にある、私立男子高校で御三家と言われる高校で理科の先生をしていました。あの眠りの研究をしている柳沢先生の出身高校でもあります。しかしその方は自分にとって理科や数学を理解することは、全く問題がなかったので、わからない生徒の気持ちを察することができなかったのです。しかし英語なら自分が苦手としていたので、分からない生徒の気持ちを理解できると。だから自分は英語の先生になりたいという思いで留学したと言われたのです。その後、この方は上智大学英文学部に入学し、無事に、その高校で英語を教える教師になりました。昨年の年賀状には、もうすぐ退職すると書かれていましたので最後までやり遂げられたのですね。
