イエス様が群衆に語る時、実生活に即した譬え話をよくされていました。なぜならば群衆にもわかりやすかったからです。さらに今日の聖書箇所の後で、イエス様は弟子たちに改めて、その譬え話の解説をしております。ここの譬え話は、一見ある程度、幼子にも分かるような内容です。しかしだんだんと内容が深く思えてきます。この譬えと言う単語はギリシア語で「あるものの傍らに別のものを置く」と言う意味が込められています。

私も何度か祖父や父の種まきを手伝ったことがあります。細かい種だと風で飛んだり、種を蒔く前に動かしていた先に、何かの加減でピョンと跳ねる時もあります。自分の服に知らないうちにくっついてから落ちる場合もあります。農業にはある程度のおおらかさが必要だと思うのです。イエス様のこの話しを聞きながら、人々はなるほど自分もそのような経験したなと思ったでしょう。日常的な譬えなので前のめりになって人々は聞いていたでしょう。

18節以降、イエス様は弟子たちだけに譬え話の解説をしています。そのイエス様の説明も決して難しくないのですが、群衆には解き明かしはせずに弟子だけに行なったのです。イエス様の話しを頭で理解することが、ここで問われているのではないということです。どのくらいイエス様の語る言葉を真剣に受け取れるかということが大切なのです。

聖書の言葉を聞く時、私に向けてイエス様が本気で話しかけられているイメージを持っているでしょうか。それとも単なる文字としての聖書の言葉になってはいないでしょうか。群衆たちはもしかすると、イエス様の言葉は素晴らしいという程度で受けていました。その一方の弟子たちは、以前の生活から離れてイエス様とともに旅を続けていたので献身の思いを持って、毎日イエス様と共に生活をしていました。同じ言葉でも重さが違っていました。そのような弟子だから、イエス様は改めて丁寧に解説しました。